2019年01月16日

年の初めに感じる、茶の湯の喜び

先日、新年の初めに、大変お世話になっている先生のお宅での初釜にお招きいただきました。炭手前、濃茶、薄茶、縁高に盛り付けられたランチ、そして初釜らしいお道具。そしてお菓子!(イノシシの主菓子が可愛すぎて、皆「食べられな〜い」と嬉しい悲鳴。笑)全てが美しくて素敵で美味しくて(笑)大変楽しませていただきました。

釜の鳴る音を聴き釜から出る湯気を見つめつつ、ご亭主がゆったりとお濃茶を練られる様子を眺めながら、ああ、お茶ってやっぱりいいなあ、とつくづくとしみじみと感じました。

そして今年2番目の初釜は、茶の湯クラスの講師をしているマンハッタンの日本クラブでした。これが日本クラブのクラスの初稽古でもあります。私は今年は薄茶のお点前を担当しました。

一緒に講師をしている姉弟子が自宅で作ったご馳走をマンハッタンまで運んで来てくれました。和やかで楽しい会となりました。

茶の湯には色々な面があります。道楽と言えば道楽ですし、一方、「茶道」という言葉の「道」という文字に表れているようにザ・修行な部分もあって(長時間の正座とか?笑)、茶禅一味という言葉もあるように禅と深く結びついているし、でも、壮大な(ごっこ遊びの)オママゴトとしか思えないところもある。最近はやりのマインドフルネスの部分があれば、(ドロドロとした人間関係を含む。笑)社交の部分もあり、心が大事かと言えば、道具に魂が宿ると言う。お点前が大事だと言う人がいれば手前にばかり拘るな言う人もいる。一見精神性が高くて優雅(なだけ)かと思いきや、バックステージは鬼の部活ですか^^;?というほどの体力勝負だったりする。歴史だ伝統だと重んじるところもあれば、本来茶の湯はアバンギャルドなものであると言う人もいる。形が大事だと言いつつ、合理的で実質的だと言う。

どの面により心惹かれるかは人それぞれだと思いますが、私は実は茶の湯がこのように(私にとっては)多面性を有している、ということそのものをこよなく愛してます。

茶の湯の世界はとんでもなく広くて、深くて、一生かかっても達人にはなれないと常に思い知る。そのことは軽い絶望感とともに潤沢な喜びで満たされることでもあります。この喜びを知ると知らないとでは、私の人生、全然違う、と思えるほどです。

心がざわついた時は(そして、そうではない時も)、特にきちんとしたお点前をしなくても、その時の気持ちにふさわしい抹茶茶椀を(手持ちの中から。笑)選んで一人静かにお茶を点てます。一人で抹茶を飲む時は何かをしながらではなくて、必ず抹茶を味わって飲むとことだけをします(あ、お菓子も食べることがかなり多いですが!笑)。一時耐久性に走って自宅で点てる時は樹脂の茶筅を使っていたのですが(苦笑)、茶筅を振る時に立つ音が(そしてその感触も)、やっぱり竹じゃないと気持ちよくないなー、と思って、竹に戻しました。シャ、シャ、と茶筅が気持ち良い音をたてるのを聞くと(とは言え、綺麗な音を立てるのは簡単ではないのですが)、自分の世界が静寂に満たされていきます。

両手で抱えたお茶碗の中に揺れる美しい緑のお抹茶をぼーっと眺めていると、そこには、その時の「自分」が映るような気がします。そこに映っているのがどんな自分であれ、それをゆっくりと飲み干すと、その美味しさと温かさに喜びを感じてゆっくりとした気持ちなります。良いことがあっても、悪いことがあっても、お茶を味わう時間が、いつも変わらずそこにあります。

自分に、こういうことがあって良かった。
ほんの端っこだけしかまだ体験できていないけど、こういう世界を知っていて良かった。
心から思います。


posted by coach_izumi at 04:44| Slices of My Lifeー徒然ノート

2019年01月10日

どーしてそうなっちゃうのかなー と思ったこと(学校編)

今は昔のことなんですが、某日本語補習校の小学校の卒業式に息子の「答辞」が選ばれて答辞を読むことになった時に、学校の先生(校長先生?どの先生かは不明)の訂正に基づいて清書してください、っていうことだったのです。で、息子は選ばれて嬉しいし、先生が直せっていうから懸命にちゃんと直そうとしてて。

が、その息子の原文と先生の「訂正」を比べた母(私)激怒した、っていうことがあって。

だって息子の原文の方が、もちろん拙いんだけど、彼らしくて、彼自身の体験に基づいた彼自身の言葉で書かれていて、絶対いいじゃん、と思ったから。一方「訂正版」は、まあ、確かにてにをは的な間違いは訂正した方が良かろうと思ったし文章の完成度は高くなってたかもしれないけど、彼独自の体験に基づいた視点とか物言いが削られて「全く違う文章」になってる部分がいつくかあって、それがいかにも教科書的というか、大人の手が入ってますね、って感じで「てか、これ、もう、お前の文章じゃないじゃん。お前絶対こんな文章書かないでしょ?」ってものになってた。

で、面白くなってるんならまだしも、「なんだ、この、ツマンナイ道徳の教科書から借りてきたツマンナーイ文章。こんな誰でも書けるような文章なら私でも書けるじゃん」てなものになってた。
でも息子は「だって先生が直せっていうから」と愚直に一生懸命直そうとしてて。

私、つい「ちょ、ちょっと、ママ、自分の子供がこんなツマンナイ道徳の教科書から借りてきたみたいなツマンナイ答辞を人前で読むなんて絶対許せないんだけど。変えるな、このままいけ」と吠える吠える。「特にここ、絶対元のままで行け」とか。

結果は、折衷案って感じになった。息子は私ほどの違和感も怒りも感じてなかったから。息子本人が直すって言ってるのに、そこまで強くも言えなくて。

私もセンセーの端くれなんで、訂正したその気持ちは分からんでもない。分からんでもないんだが。でも、なーんで、そういうことするかなー????こういうことが子供に与えてしまう(かもしれない)ネガティブなインパクト(の大きさ)にどうして気がいかないかなー??とその時、激怒して家の中で一人で吠えながらなんだか、とほほな気持ちでいっぱいになった。

あんまりこういうこと表立って吠えても、差し障りがあるかもなー、と思って(NY、世間が狭いし。あと、息子は某日本語補習校でかなり楽しくやらせてもらってて普段は全然問題とかないんです、はい)、当時は激怒しつつつも控えたんですが、またしても、なんちゅうの、ちょっと似たようなことが起こって、(今回は上記の時ほどのことではないしだからそんなに怒ってもないんだけど)その時のことをちょっと思い出してしまって、吐きださせてもらいました。

ちなみに今回の息子は「もー いいよ、めんどくさいから、言う通りにやっとく」てことで。本人は「絶対俺が書いたもともとのやつの方がいい」って言ってるし、父母二人も揃ってそうだそうだ、って言ってるから、家族3人で長いものに巻かれてあら愉快、ってことで、まー、いいのか?
挙句に親子の間では「『立派なバージョン』『夢に溢れる健全な子供のバージョン』『ませた悩めるガキが書くバージョン』『とんでもないぶっ飛びバージョン』とか色々バージョンを用意して選んでもらったら?」と言うジョークが飛び交う始末(発案は息子)。

繰り返しますが、私もセンセーの端くれなんで、そーなっちゃうのは、分からんでもないんだけど。でも、やっぱり、どーして、どーして、そうなっちゃうのかなーー???

と、別に誰かに尋ねてるわけじゃないんです。

でも、嘆きたくなったのでした。
posted by coach_izumi at 01:35| Food for Thoughtー感じたこと思ったこと