父の正確な命日は分からない。
父は自宅で一人で死んだからだ。
近所に住む父のいとこの一人が毎週土曜日に父の様子を見に父を訪ねてくれていた。そして年末が迫った土曜日にいつものように父を訪ねてくれた。その翌日の日曜日に「なんだか嫌な予感がした」からと家に行ってくれて、父が居間の床に寝た状態で亡くなっているのを見つけてくれた。
明後日には家族で北海道に帰省しようとゆっくり過ごしていた年末の日曜日の午後、その父のいとこから私の携帯に電話があって知らせを受けて、すぐに飛行機のチケットを取って千歳に飛んだ。最初は無理かなと思ったが、奇跡的に、夜中近くにはなったが当日中に父が一人で住んでいた実家に到着することができた。
第一報を受けた時の正直な気持ちは、ホッとした、だったと思う。癌を患っていたが、頑として病院にも行かず在宅ケアも受けず熊本に住んでいた私のところに来るなんて論外、だった父はアルコールに依存するようになっていた不良病人だった。父自身については、心配は心配だったがもう本人がしたいようにしてくれればいいとは思っていた。だが、他の人を巻き込んだトラルブを起こさないかとそちらの方が心配で、気が気でなかった。だから、一人でただ死んだ、ということにホッとした。ああ、終わったんだな、と思って、体の力が抜けたような感覚を覚えた。
実家に到着すると、父と兄弟のように育った、電話をくれた父のいとことその兄弟たちが父のそばにいてくれた。私はなんとなく、病院で亡くなった母を家に連れて帰ってきたすぐ後の時のように、父が病院のパジャマを着て普通の布団に寝ているんだろうと思っていた(病院にはいなかったのに)。でも、父がいる部屋に行って私が見た光景は全く違った。
父のいとこたちが全てを手配してくれて、父は葬儀屋さんが準備してくれた綺麗な掛け布団をかけられていて、その上にはやっぱり綺麗な袈裟のような布がかかっていた。その上にはご丁寧に懐剣まで置いてあった(入れ物だけで、本当の剣は入ってないが)。父の横にはお線香が立てられていて、父の顔には白い四角い布がかかっていた。
なにこれ。まるで死んだ人みたいじゃん。と私は思った(死んでいるんだが)。
なに、お父さん、なに、死んだ人みたいになっちゃってんの?(だから死んでいるのである)と頭の中で叫んだ。
そのまるで葬儀屋のパンフレットみたいに綺麗に整えられたすっかり出来上がった光景に、私は衝撃を受けた。お父さんが死んじゃった、と思った(だから死んでるんだって)。そして私は、まるで下手な芝居のように、その場で膝から崩れ落ちて、堰を切ったように、父の横で号泣し始めた。なんで、なんで、と、実際に絞り出すように言葉にしていたような気がするが、頭の中だけで言っていたような気もするし、定かではない。いずれにせよ、なんで、なんで、と私は何度も言った。なんで勝手に一人で死んじゃってるわけ。なんであと二日待てないわけ。なんで、なんで。
そして、ばっかじゃないの、と思った。実際に口に出して言ったかもしれない。ばっかじゃないの、最期まで意地はって。ばっかじゃないの、私に会いたかったでしょうに。ばっかじゃないの、こんな死に方して。ばっかじゃないの、なんでもうっちょとだけ待てないかな。ばっかじゃないの。(死んだばかりでいきなりたった一人の実の娘に罵倒される父も気の毒なことであった。)
嗚咽が止まらなかった。私は慟哭し続けた。朝まで大声で泣き続けられるような気がした。
全く泣き止まない私を見かねてか(そばにいた父のいとこ達も困っていただろうし)、夫が、「お父さんに会ってあげないと」と、父の顔の上の白い布を取るように私に促した。ほっておいて、私はただこのまま泣いていたいんだ、死んだお父さんの顔なんて見たくないよ、見たらほんとに死んだことになっちゃうじゃない(だから死んでるし)、とちらりと思ったような気がするが、さすがに言われるままに布を取った。現れた父の顔は痩せてて強張ってて、私は、なにこれ、と思った。こんなのお父さんじゃないよ、と。だから私はまたすぐに白い布を父の顔にかけた。
父のいとこたちたちが帰って、まだ小さかった息子を寝かせたあと、夫がお父さんと飲もうか、と言ってくれた。
肝臓癌を患っていた父にアルコールは厳禁だったが、母が死んで3年の間にすっかりアルコールに依存するようになっていた。いくら止めてもやめるわけもなかったので、だったらもう最後のお正月かもしれないんだしどうせ飲むなら美味しいお酒を持って行ってあげようかと考えて、結構いいお酒を買って準備していた。急な帰省とはなったが、私はそれを忘れずに持ってきていた。ティッシュにお酒を湿らせて父の唇を湿らせてお酒をあげて、そのあと夫と二人で小さなグラスで乾杯して父と一緒にお酒を飲んだ。夫と何を話したか覚えてないが、その時間で少し慰められたような気がした。
母の時には行った納棺の儀は、父の時にはしなかった(実家のある地域ではするのが一般的だった)。なんだかする気になれなかった。通夜を済ませ葬儀を済ませ、年が明けて、父と一緒に食べようと注文しておいたおせち料理を夫と息子と実家で食べた。そのあとすぐに夫と息子には夫の実家に行ってもらって、私は初七日までとそのあと数日を一人で実家で過ごした。
年末年始に当たったので諸々の手続きのために関係各所に行くこともできなかったので、昼間は実家の片付けをして過ごした。家は処分しなければならなかったから、写真を含めたたくさんのものを整理して処分した。夜は年末年始のくだらないテレビをぼーっと見て過ごした。お正月休みが終わったあとは市役所に行ったり銀行に行ったりする道を歩きながら北海道の冬は寒いなーとつくづく思った。晴れた日もあったはずだが、その時のことを振り返ると、どんよりとした空しか思い出せない。
熊本に帰らないといけない日が迫ってきて、さあ父のお骨をどうしようかと思った。四十九日の納骨の日までは、家の祭壇にお骨を置いておくのが私の実家の地域での習慣だった。抱えて帰ってまた四十九日の時に持ってこようかなー、と考えていたが、父を見つけてくれた件のいとこが「まさか飛行機に持って乗るわけにも行かないだろから、置いていけ。かわいそうだけど。ちゃんとお線香をあげに来るから」と言ってくれた。誰もいない家にお骨を一ヶ月以上も置いておくって、ありえない、と感じる人は世間には多いのではないかと思うが、船山家とその親戚は、こういう、合理的なところがあった。そのいとこがそう言ってくれるならと、私はそうすることにした。そう、骨壷に、父がいるわけではないのだから。
熊本に帰って、福岡に単身赴任していた夫も福岡に行って、普段の生活を再開させる日がきた。年明けの初出勤だ。基本的にワンオペ育児をしていた私は就学前の息子を寝かしつける時に一緒に寝て、朝の3時とか4時に起きて、家で仕事をして、息子を通常よりも早い時間に保育園に預けて職場に行くという生活をしていた。その日も同じようにして、朝7時半頃に勤務先の大学に到着した。
北海道ほどではないにしても、1月の寒い朝だった。少しもやがかかっていたような記憶がある。いつもの駐車場に車を停めて車から降りた私はなんとなく暗い気持ちでいた。重く感じる体を引きずって自分の研究室があった建物に向かおうとしたその時、私がいた場所から10mほど離れた別の建物の外から中に続く階段の手すりのような所で一匹の猫が座っていて、こちらを見ていることに気がついた。
その猫は、ちょっと体がデブっとしていて、体に縞のようは斑点のような模様が合って、ちょっと薄汚れてふてぶてしい感じで、私は、なんかちょっとお父さんみたいだな、と思った(父の名誉のために言うと、別に父が薄汚れた感じの人間だった訳ではないのだが)。
猫は、私が駐車場に来る前からそこにいてずっと私を見ていたんだろうと思わせるほどに、微動だにせず、そこにいて、私をじっと見ていた。見ているように感じた。私も猫を見返した。私たちは、しばし見つめ合っていた、と思う。
「お父さん?」
お父さんだったりして。お父さんならいいのにな。そう思ってそんな風に声をかけてしまったのは、猫という動物が私にとってはちょっと不思議な存在だったからだと思う。するとその猫が、ぎゃおおおおおん、ぎゃおおおおん、と、さきほどからの姿勢を全く変えることなく、威嚇するかのように、怒っているかのよう数度鳴いて、その鳴き声はまだ誰もいないもやのかかったキャンパスに響き渡った。
私はまるで 父に、もしくは猫に、「しっかりしろ」と言われているような気がした。その鳴き声の激しさに驚いたものの、私は思わず「お父さん、私、大丈夫だから。頑張るよ。頑張るから」とその猫に向かって叫んだ。
そのあと猫に背を向けて研究室がある建物に私は向かったが、その私を猫はじっと見送っていたように感じた。
それから数度、同じ時間帯に同じ駐車場に車を停めた冬の朝に、同じ猫と会った。猫は毎回同じ場所にいて同じように私を見ていたが、熊本に早い春が来る頃にはいつの間にいなくなって、その後その猫を見かけることは2度となかった。
2019年12月29日
父が死んだ時のこと
posted by coach_izumi at 14:45| Slices of My Lifeー徒然ノート
2019年12月25日
"You made my Christmas" ークリスマス・イブの出来事
最近ゆっくりだと5Kがきつくなくなってきた!ので、今日はちょっと距離を伸ばしてみようと思って、いつもは行かない道まで走ってみた。と、基本的に車しか通らない道の真ん中に携帯が落ちいてる。思わず拾うと、ちょっと離れたやっぱり道の真ん中に携帯ケースが。あまりに場違いで、どこからともなく目の前に現れたようにしか思えなかった。やはり思わず拾って、手に抱えて家に戻る道を走りながら、うーん、面倒なことになっちゃったなー、どうしようかなー、なんて思った。
昭和の日本人としてはもちろん警察に届けるのが順当ですよね、は思ったけど、なんかのトラブルに巻き込まれたらいやだなーと思ったのと(ほら、アメリカだからねー)、あと、ちょっと面倒だなーって。だって、家からドライブしてかないといけないんだもん、ポリスステーションまで。でもでも、困ってるかもしれないよなーとか色々走りながら考えて、結局、家に帰ってすぐにシャワーを浴びてすぐにポリスステーションまで運転して届けたその即決速攻行動の決め手になったのは、小さい頃住んでいた町の交番のおまわりさんが、くだらないものを拾っては届ける私たち子供に(10円玉とか。笑)いつも優しくしてくれたかもしれない、と思ったりして。
ポリスステーションにイブだっていうのに勤務してた若いポリスマンに落し物を渡して、言われるままに一応私の免許を見せて家に帰ったら、わりとすぐにその若いポリスマンから電話があって、私た立ち去るとすぐに落とし主のジェントルマンが現れたという。それで、その人が私に電話してお礼お言いたいから私の番号を渡してもいいですかと聞かれた。ちょっと迷ったが、まあ大丈夫だろうと思っていいですよ、と伝えて電話を切ったが、本当にお礼の電話が来るとはあんまり思えなかった。だって拾い主、わけわかんない名前の外国人ぽいし??笑 するっと電話なんかしないんじゃないかなーと思った。
でも、夕飯をほぼ終えた頃、電話がかかってきて、結構お年を目した感じの(70代?80代?)の丁寧なまさしくジェントルマンが、名を名乗って、本当にありがとうと言ってくれた。誰もがこういうことをするわけではないとも言ってくれた。そう言われてもちろん嬉しかったが、それ、うん、分かるよ、と思った(苦笑)。だって、トラブルに巻き込まれる可能性もあるし、面倒だしさー、そんな酔狂なこと、このアメリカで昨今わざわざしないよね、普通。私だってたまたまそうしただけのような気がするし(とは言わなかったけど)。笑。でも、落とした人は困ってるんじゃないかと思ったから、と伝えて、届けたはいいけど本当に落とし主が現れるかどうか心配だったから良かったです、と伝えると、そのジェントルマンは、英語ならではの表現で素敵なことを言ってくれた。You really made my Christmas. ちょっと感動した。Mr なにがしさん、You made my Christmas, too. あの落とし物は、神様(?)から私への、クリスマスプレゼントだったのかな?笑
昭和の日本人としてはもちろん警察に届けるのが順当ですよね、は思ったけど、なんかのトラブルに巻き込まれたらいやだなーと思ったのと(ほら、アメリカだからねー)、あと、ちょっと面倒だなーって。だって、家からドライブしてかないといけないんだもん、ポリスステーションまで。でもでも、困ってるかもしれないよなーとか色々走りながら考えて、結局、家に帰ってすぐにシャワーを浴びてすぐにポリスステーションまで運転して届けたその即決速攻行動の決め手になったのは、小さい頃住んでいた町の交番のおまわりさんが、くだらないものを拾っては届ける私たち子供に(10円玉とか。笑)いつも優しくしてくれたかもしれない、と思ったりして。
ポリスステーションにイブだっていうのに勤務してた若いポリスマンに落し物を渡して、言われるままに一応私の免許を見せて家に帰ったら、わりとすぐにその若いポリスマンから電話があって、私た立ち去るとすぐに落とし主のジェントルマンが現れたという。それで、その人が私に電話してお礼お言いたいから私の番号を渡してもいいですかと聞かれた。ちょっと迷ったが、まあ大丈夫だろうと思っていいですよ、と伝えて電話を切ったが、本当にお礼の電話が来るとはあんまり思えなかった。だって拾い主、わけわかんない名前の外国人ぽいし??笑 するっと電話なんかしないんじゃないかなーと思った。
でも、夕飯をほぼ終えた頃、電話がかかってきて、結構お年を目した感じの(70代?80代?)の丁寧なまさしくジェントルマンが、名を名乗って、本当にありがとうと言ってくれた。誰もがこういうことをするわけではないとも言ってくれた。そう言われてもちろん嬉しかったが、それ、うん、分かるよ、と思った(苦笑)。だって、トラブルに巻き込まれる可能性もあるし、面倒だしさー、そんな酔狂なこと、このアメリカで昨今わざわざしないよね、普通。私だってたまたまそうしただけのような気がするし(とは言わなかったけど)。笑。でも、落とした人は困ってるんじゃないかと思ったから、と伝えて、届けたはいいけど本当に落とし主が現れるかどうか心配だったから良かったです、と伝えると、そのジェントルマンは、英語ならではの表現で素敵なことを言ってくれた。You really made my Christmas. ちょっと感動した。Mr なにがしさん、You made my Christmas, too. あの落とし物は、神様(?)から私への、クリスマスプレゼントだったのかな?笑
posted by coach_izumi at 11:27| Slices of My Lifeー徒然ノート
2019年12月18日
町長さんに陳情に行く、の巻
小学生の頃に私が住んでいたのは競走馬の産地として有名な北海道の田舎町。私の家の近くには寂れた公園があったが、遊具はほとんどなくてあっても壊れていた。遊具など使わなくても遊び場所はいっぱいあったが(近くの川でザリガニとるとか、海辺で昆布を拾うとか、その辺の牧場の馬に隣の畑からこっそり拝借した人参を食べさせてみるとか)、昭和の高度成長期の子供はやっぱり「遊具」で遊びたかった。ちゃんとした遊具がある公園までは子供の足で歩くと15―20分くらい、自転車でも10分くらいかかったような記憶がある。よくその公園には行っていたが、ちょっと遠くて不便だなーうちの近くの公園がもうちょっとちゃんとしてたら便利なのに、とそれはもう保育所に通っていたくらいの頃から常々思っていた。
小学校3年生の時だったと記憶しているが、学校で社会の時間に町の行政の仕組みについて習った。学校とか公民館とか公園(!!)とかそういう公共の建物は、役場の人が話し合って、町長さんが決めて、作るんですよー、てなことが書いてあった。
私は真面目で素直な小学生だったので、教科書に書いてあることは正しいことだと思って読んでいた。だから、私は社会の時間を通して学んだのである。あ、そうなの?公園って、役場の人が作るの?町長さんが決めるの?だから思ったのだ。だったら、町長さんに頼めばいいんじゃないの?と。本当に素直に思ったのだ。
母が夕飯の買い物か何かで家を留守にしたある午後、私は突然に決心した。町長さんに公園を作ってってお願いに行こう!と。それはまるで秘密のミッションのように感じられた。使命感に掻き立てられ、決心したら即行動。私は自転車に飛び乗り、キコキコと自転車を10分くらい漕いで役場に向かった。自転車を漕いでいる時も、そして役場に到着してからはなおのこと、ドキドキして、でも「これで公園が作ってもらえるー(←本気)」とわくわくして(めでたい)、緊張して高揚した気分だった。
役場にはそれまでにも何度か母と来たことがあった。でも、一般の人を受け付けるいくつかの窓口を目の前にして、私は迷った。どこの窓口で公園を作ってくださいってお願いしたらいいんだろう?小学3年生の女の子が一人で役場にいるのは似つかわしくない。目を泳がせて困ってる様子の私に、何かの窓口に座っていたお姉さんがカウンターの向こうから、どうしたの?と優しく声をかけてくれた。
あーよかったーと思った私は、でもやっぱりまだ緊張して高揚した気持ちのまま、お姉さんに、自分の家の近くの公園は遊ぶものが全然なくて遊べないこと、いつも行く公園はちょっと遠くて不便なこと、だからうちの近くの公園があったところに新しい公園を作って欲しいこと、それを町長さんにお願いしたいこと、を一生懸命伝えた。
その優しいお姉さんは、今思えば、ちょっと目を丸くしてたんだと思う。ちょっとだけクスクス、って感じで笑って(そして私はなぜこんな真剣な真っ当な訴えに対して笑っているのか謎だった)、ちょっと待ってね、と言い残して奥に引っ込んだ。そして少ししてまた出てきてから、出口を出て隣の玄関の方に来るように言ったのだ。その玄関とは、一般の人が使う玄関じゃなくて、いわゆる関係者の人が使う、なんか偉そうな玄関だ。一人残されてる間も緊張と高揚が続いていた私は、あー!町長さんに直接お願いすることができるんだー、と思って、ホッとして且つコーフンした。
件の玄関に行って待ってるとすぐに優しいそうな上品なおじさんが出て来て、やっぱり優しく私に言った。町長さんは今日は忙しくてこれないんだけど、おじさんが代わりに聞いて町長さんに伝えてあげるよ。どうしたの?と。私は、えーこの人、町長さんじゃないのか、と結構がっかりしたが、でも、ちゃんと伝言してもらわないと、と思って、先ほどお姉さんに熱弁を振るった内容をそのおじさんに再び一生懸命伝えた。
私の顔を見てうなずきながら聞いてくれたおじさんは私が話し終わった後、分かったよ、おじさんがちゃんと町長さんに伝えておくからね、とやっぱり優しく言ってくれた。そして最後に私の名前を尋ねたので、優等生だった私は元気に答えた。「船山和泉です!!」と。ここから若干記憶が曖昧なのだが、お父さんは何をしてるの?というようなことも聞かれたのかもしれない。もちろん私はやっぱり元気に父が当時勤めていた町内に営業所のある会社の名前を伝えたように、うっすらと記憶している。
ミッション、コンプリート。達成感に包まれて私は再び自転車をキコキコ漕いで家に帰った。そして、このことをすっかり忘れた。己のミッションはコンプリートしたのだ。あとは知らん。私はその実かなり緊張していたのだと思う。だけど公園のことをお願いしなくてはという根拠ない使命感がその緊張を凌駕していたというわけだ。が、緊張感からの開放感があまりに大きかったせいか、私は、家に帰ったあと、すっかり完璧にこのことを忘れた。
そして、2〜3日後だったと思う。外出から帰宅した母が家に入るなり慌てたように私に尋ねた「ねー、ねー、あんた、役場に行って、町長さんに公園作ってくださいってお願いしたの!?!?」と。ちょっと叫んでたかも。
その母の「ただならぬ」(苦笑)様子を感じてかどうかよく覚えてないが、すっかりそのことを忘れていた私は記憶(??)を呼び起こされると共に、「え、なんでバレちゃったの!?!?」と内心焦った。あれは秘密のミッションだったのに。秘密裏に一人ひそかにコンプリートしたはずだったのに(しかしなんで秘密だと思ってたんだろう?)だが、私はそんな内心の焦りを母に露呈すまいと、さもなんでもないことのように「う、う〜ん、行ったよ〜・・・(行ったけど、それが何か?)」とちょっとごまかして返答した。でもそのごまかしたような返答でも事実確認には十分だったようで、母は、「・・・え!・・・・え〜〜〜・・・・・!!!!〜〜〜」と、驚き、そして絶句した。今思うと、言葉を飲み込んだのだと思う。母がそのあと何も言わなかったので、なんとか大丈夫だったらしい(何が?)と思って、これ幸いにと、そのことについて私はその後一切触れなかった。母も何も言わなかった。
その翌日か翌々日か覚えてないけど、クラスメイトの男の子に「お前役場に行って公園作ってくださいってお願いしたんだって?バカでないか(北海道弁のアクセントで)」と言われた。その物言いにちょっと傷ついたが、当時の私はどうしてバカでないか、と言われるのか、心底分からなかったので(今はなんとなく分かるが)、スルーした。それから、母親が夕飯の買い物なんかに町に出かけるときに一緒に行ったりすると、会う人会う人が(小さい田舎町なので夕飯の買い物時には毎回のように知り合いに会う)「あ、和泉ちゃん!役場に公園作ってってお願いに行ったんだって〜!?すごいね〜」と私に言ったり、私自身が知らない人で母だけが知り合いの人であっても、母と一緒にいる私を見て「あら、あなたが和泉ちゃん!?あの役場に公園作ってってお願いに行った和泉ちゃん!?あら〜、この子なのね〜〜!?」などと言ったりした。そいういう風に言うおばさんたちが皆どこか面白がっている様子というかちょっとだけ小馬鹿にしている様子というか、「それ、ウケる〜」って感じだったのを子供の私は感じ取っていたが、それでも、どうしてそれが面白いのかウケるの、当時の私はやっぱり分からなかったので、ぼんやりとした違和感を感じながらも心の中でそういう反応をスルーした。そういうやりとりのたびに母は「そうなのよ〜・・・いや〜 もう〜・・・」などと、英語で言うところのembarrassment(=恥ずかしいと思う、当惑する)を体現してはいたが、はっきりとネガティブなことは言わないまま、なんとなく返している様子だった。私はやはりそれがなぜembarrassing(=恥ずかしと思う、困惑する)なことなのかピンとこなかったので、やはりスルーした。そういうやりとりについて私と母で話すこともなかった。
そんな人たちの中で、近所に住んでいて毎日のように遊んでいた仲良しのお姉ちゃんのお母さんだけが(その人にもこのニュース??は届いていたのであった)、私にそのことについてはっきりと「そういう和泉ちゃんは、すごい、えらい。おばさんそういう和泉ちゃんが好き」と言ってくれた。このおばさんは常日頃から「和泉ちゃんはハキハキしててはっきりしてて、いいね。おばさん、そういうの、好きだわ〜」としばしば言ってくれていた人だった。私の陳情行動(?)について褒めてくれたのは嬉しく思ったが、だが、なぜ褒められるのかが、なぜ笑われるのかと同じくらいに、分からなかった私は、やはりぼんやりとした反応をしていたと思う。
私は教科書に書いてあったからその通りにしただけなのに、どうして人々がそういう風に反応するのか、当時の私は、本当に分からなくて、困惑していた。
あとで分かったことは、私の訴えを町長さんの代わりに聞いてくれたあの優しいおじさんは、助役さんで、私のクラスメイトのお父さんだった。そしてその奥様、つまりクラスメイトのお母さんは、PTAの会長なんかをいつも務めるような人で、とてもおしゃべりな人(笑)だった。その助役夫妻は、いわば町の名士だったわけだ。
私の陳情行動は、SNSも何もなかった時代に、あっという間に、それこそ町中に広がっていたのであった。学校の先生にも「役場行ったんだって!?」と聞かれたし、そのあと、5年経っても、10年経っても、20年経っても、久しぶりにあった昔の知り合いとか、あとその話を直接母から聞いた親戚などにそのことを言われた(苦笑)。「和泉ちゃんと言えば、役場に公園作ってってお願いに行ったのよね〜」と、それはもうまるで正月の酒のつまみのスルメを何度も噛むがごとく、何度もあちこちで言われた。ちなみに、驚きと恥ずかしさ(←多分そういうことだったのだろう)から回復した母が、その事件(?)のすぐあとのお正月の時だったか、親戚が集まってる時にその話を親戚たちに面白おかしくしている時に「も〜 びっくりよ〜、それがまた、クラスメイトのお父さんだったのよ〜 その奥さんがおしゃべりでね〜」てな調子で話してて親戚も皆ばかうけしてる様子を見て、私は別に傷ついたりはしなかったが、これって、そういうタイプのネタなのかな〜??とぼんやりと思った。だがやはり、どうしてそんなにそれが面白ことなのか、まだ分からなかった。そのあと何年もしてからそのネタを話題として出される時もやはりイマイチ分からなかった。ドキドキもワクワクもしたが、自分は教科書に書いてあったからその通りに試してみただけだったし、ミッションをコンプリートした段階で、私にとってそのことは「もう済んだこと」であったから。
子供だった自分の突拍子のなさと、この顛末のおかしさみたいなものがなんとなく分かるようになったのは、多分高校生か大学生の頃だと思う。だが、やはり「なんとなく」だったと思う。そして母が感じたであろう驚きとある種の恥ずかしさが分かったのは、それこそ自分が親となってからだ(幼い頃の息子もそういうところがあったからであった)。
母が偉かったと思うのは、その母が感じた恥ずかしさみたいなものが私になんとなくは伝わってはいたものの、私がとった行動に関してネガティブなことをおそらくはあえて(そして一生懸命に。苦笑)言葉にして言わないようにしたのだろうと思われることだ。町で会う人とのやりとりの中でも、モゴモゴとはしていたものの、「本当に恥ずかしいわー」とか「困っちゃうわー」とかそういう言葉は発せず、ただ「ね〜 そうなのよ〜・・・ いやー 本当に〜 もごもご」にとどめていた。私が大人になってからたまに「あんたは本当に突然突飛なことするから・・・」と苦笑まじりに言っていたが、この時のことも頭にあったんだろういうのは想像に難くない。
ちなみに父は、母が死んだあと(つまりかなり後になって)の私との会話の中でふと「お前、役場に公園作ってくださいって言いに行ったことあったべ?」とこの話題を初めて(!)私に対して出したことがあった。「あの時、お父さん飲み屋で(!!)そこにいた人たちみんなに揶揄われてな〜〜恥ずかしかったな〜」と言うので、私が軽い気持ちで「嫌だったった?」と聞くと「そりゃあ、嫌だったさあ!!」と逆ギレ(??)されたことがあった。母が死んだあとで色々辛くてこのネタで娘に恨み節をぶつけて八つ当たりしたかったのかもしれないが(苦笑)、逆にそんなに嫌だったのに、当時の私には何にも言わなかったこと、父も偉かったと思う。
役場で私の相手をしてくれたお姉さんも、町長さんの代わりに私の話を聞いてくれたクラスメイトのお父さんの助役さんも、町で会った時にウケてたおばさん達も、近所のおばさんも、みんな温かかったと思う。母も父も、自分たちのメンツとか恥ずかしいと思う気持ちよりも、おそらくは我が子の資質を尊重しようして、あえて(多分、あえて)私に何も言わないでいてくれたこと、今振り返れば、とてもありがたかったと思う。
あの頃のような純粋さとか真面目さとか率直さとか、それに伴う行動力は今の私にはない(てか、われながら本当にバカでめでたかったいうか、ちょっとどっか外れてたと思うが)。まあ、あのまんまだったら周りも本人も結構困るだろうと思うが(苦笑)。でも、今でもたまに自分に起こる「思いついたら即行動パターン」を自覚する時(例えばいきなり走り出して5Kレース出るとか。笑)、これは私にトラブルをもたらすこともあるけど(あるある、ある〜)私の人生を面白くもしている私の一つの資質だなあ、と思ったりする。そしてそういう資質は、いつだって損なわれたかもしれない、と思う。例えば、そう、私が町長さんに公園作ってくださいと陳情に行った時やその後の人々の反応によって。特に両親や身近な人たちの反応によって。こういう資質が良い、ということではなくて、持って生まれたそういう資質が損なわれることなく歪曲されることもなく(まあ大人になるに従って、もちろん調整した/されたわけだが)、子供時代を過ごせたことをありがたく思う。そして小さな片鱗だけどそれが今の自分にもちょっとだけ残っているんじゃないかなーと思える瞬間があるのは、実はちょっと楽しい(家族とか身近な人は困ることもあるような気がするが。苦笑)。
小学校3年生の時だったと記憶しているが、学校で社会の時間に町の行政の仕組みについて習った。学校とか公民館とか公園(!!)とかそういう公共の建物は、役場の人が話し合って、町長さんが決めて、作るんですよー、てなことが書いてあった。
私は真面目で素直な小学生だったので、教科書に書いてあることは正しいことだと思って読んでいた。だから、私は社会の時間を通して学んだのである。あ、そうなの?公園って、役場の人が作るの?町長さんが決めるの?だから思ったのだ。だったら、町長さんに頼めばいいんじゃないの?と。本当に素直に思ったのだ。
母が夕飯の買い物か何かで家を留守にしたある午後、私は突然に決心した。町長さんに公園を作ってってお願いに行こう!と。それはまるで秘密のミッションのように感じられた。使命感に掻き立てられ、決心したら即行動。私は自転車に飛び乗り、キコキコと自転車を10分くらい漕いで役場に向かった。自転車を漕いでいる時も、そして役場に到着してからはなおのこと、ドキドキして、でも「これで公園が作ってもらえるー(←本気)」とわくわくして(めでたい)、緊張して高揚した気分だった。
役場にはそれまでにも何度か母と来たことがあった。でも、一般の人を受け付けるいくつかの窓口を目の前にして、私は迷った。どこの窓口で公園を作ってくださいってお願いしたらいいんだろう?小学3年生の女の子が一人で役場にいるのは似つかわしくない。目を泳がせて困ってる様子の私に、何かの窓口に座っていたお姉さんがカウンターの向こうから、どうしたの?と優しく声をかけてくれた。
あーよかったーと思った私は、でもやっぱりまだ緊張して高揚した気持ちのまま、お姉さんに、自分の家の近くの公園は遊ぶものが全然なくて遊べないこと、いつも行く公園はちょっと遠くて不便なこと、だからうちの近くの公園があったところに新しい公園を作って欲しいこと、それを町長さんにお願いしたいこと、を一生懸命伝えた。
その優しいお姉さんは、今思えば、ちょっと目を丸くしてたんだと思う。ちょっとだけクスクス、って感じで笑って(そして私はなぜこんな真剣な真っ当な訴えに対して笑っているのか謎だった)、ちょっと待ってね、と言い残して奥に引っ込んだ。そして少ししてまた出てきてから、出口を出て隣の玄関の方に来るように言ったのだ。その玄関とは、一般の人が使う玄関じゃなくて、いわゆる関係者の人が使う、なんか偉そうな玄関だ。一人残されてる間も緊張と高揚が続いていた私は、あー!町長さんに直接お願いすることができるんだー、と思って、ホッとして且つコーフンした。
件の玄関に行って待ってるとすぐに優しいそうな上品なおじさんが出て来て、やっぱり優しく私に言った。町長さんは今日は忙しくてこれないんだけど、おじさんが代わりに聞いて町長さんに伝えてあげるよ。どうしたの?と。私は、えーこの人、町長さんじゃないのか、と結構がっかりしたが、でも、ちゃんと伝言してもらわないと、と思って、先ほどお姉さんに熱弁を振るった内容をそのおじさんに再び一生懸命伝えた。
私の顔を見てうなずきながら聞いてくれたおじさんは私が話し終わった後、分かったよ、おじさんがちゃんと町長さんに伝えておくからね、とやっぱり優しく言ってくれた。そして最後に私の名前を尋ねたので、優等生だった私は元気に答えた。「船山和泉です!!」と。ここから若干記憶が曖昧なのだが、お父さんは何をしてるの?というようなことも聞かれたのかもしれない。もちろん私はやっぱり元気に父が当時勤めていた町内に営業所のある会社の名前を伝えたように、うっすらと記憶している。
ミッション、コンプリート。達成感に包まれて私は再び自転車をキコキコ漕いで家に帰った。そして、このことをすっかり忘れた。己のミッションはコンプリートしたのだ。あとは知らん。私はその実かなり緊張していたのだと思う。だけど公園のことをお願いしなくてはという根拠ない使命感がその緊張を凌駕していたというわけだ。が、緊張感からの開放感があまりに大きかったせいか、私は、家に帰ったあと、すっかり完璧にこのことを忘れた。
そして、2〜3日後だったと思う。外出から帰宅した母が家に入るなり慌てたように私に尋ねた「ねー、ねー、あんた、役場に行って、町長さんに公園作ってくださいってお願いしたの!?!?」と。ちょっと叫んでたかも。
その母の「ただならぬ」(苦笑)様子を感じてかどうかよく覚えてないが、すっかりそのことを忘れていた私は記憶(??)を呼び起こされると共に、「え、なんでバレちゃったの!?!?」と内心焦った。あれは秘密のミッションだったのに。秘密裏に一人ひそかにコンプリートしたはずだったのに(しかしなんで秘密だと思ってたんだろう?)だが、私はそんな内心の焦りを母に露呈すまいと、さもなんでもないことのように「う、う〜ん、行ったよ〜・・・(行ったけど、それが何か?)」とちょっとごまかして返答した。でもそのごまかしたような返答でも事実確認には十分だったようで、母は、「・・・え!・・・・え〜〜〜・・・・・!!!!〜〜〜」と、驚き、そして絶句した。今思うと、言葉を飲み込んだのだと思う。母がそのあと何も言わなかったので、なんとか大丈夫だったらしい(何が?)と思って、これ幸いにと、そのことについて私はその後一切触れなかった。母も何も言わなかった。
その翌日か翌々日か覚えてないけど、クラスメイトの男の子に「お前役場に行って公園作ってくださいってお願いしたんだって?バカでないか(北海道弁のアクセントで)」と言われた。その物言いにちょっと傷ついたが、当時の私はどうしてバカでないか、と言われるのか、心底分からなかったので(今はなんとなく分かるが)、スルーした。それから、母親が夕飯の買い物なんかに町に出かけるときに一緒に行ったりすると、会う人会う人が(小さい田舎町なので夕飯の買い物時には毎回のように知り合いに会う)「あ、和泉ちゃん!役場に公園作ってってお願いに行ったんだって〜!?すごいね〜」と私に言ったり、私自身が知らない人で母だけが知り合いの人であっても、母と一緒にいる私を見て「あら、あなたが和泉ちゃん!?あの役場に公園作ってってお願いに行った和泉ちゃん!?あら〜、この子なのね〜〜!?」などと言ったりした。そいういう風に言うおばさんたちが皆どこか面白がっている様子というかちょっとだけ小馬鹿にしている様子というか、「それ、ウケる〜」って感じだったのを子供の私は感じ取っていたが、それでも、どうしてそれが面白いのかウケるの、当時の私はやっぱり分からなかったので、ぼんやりとした違和感を感じながらも心の中でそういう反応をスルーした。そういうやりとりのたびに母は「そうなのよ〜・・・いや〜 もう〜・・・」などと、英語で言うところのembarrassment(=恥ずかしいと思う、当惑する)を体現してはいたが、はっきりとネガティブなことは言わないまま、なんとなく返している様子だった。私はやはりそれがなぜembarrassing(=恥ずかしと思う、困惑する)なことなのかピンとこなかったので、やはりスルーした。そういうやりとりについて私と母で話すこともなかった。
そんな人たちの中で、近所に住んでいて毎日のように遊んでいた仲良しのお姉ちゃんのお母さんだけが(その人にもこのニュース??は届いていたのであった)、私にそのことについてはっきりと「そういう和泉ちゃんは、すごい、えらい。おばさんそういう和泉ちゃんが好き」と言ってくれた。このおばさんは常日頃から「和泉ちゃんはハキハキしててはっきりしてて、いいね。おばさん、そういうの、好きだわ〜」としばしば言ってくれていた人だった。私の陳情行動(?)について褒めてくれたのは嬉しく思ったが、だが、なぜ褒められるのかが、なぜ笑われるのかと同じくらいに、分からなかった私は、やはりぼんやりとした反応をしていたと思う。
私は教科書に書いてあったからその通りにしただけなのに、どうして人々がそういう風に反応するのか、当時の私は、本当に分からなくて、困惑していた。
あとで分かったことは、私の訴えを町長さんの代わりに聞いてくれたあの優しいおじさんは、助役さんで、私のクラスメイトのお父さんだった。そしてその奥様、つまりクラスメイトのお母さんは、PTAの会長なんかをいつも務めるような人で、とてもおしゃべりな人(笑)だった。その助役夫妻は、いわば町の名士だったわけだ。
私の陳情行動は、SNSも何もなかった時代に、あっという間に、それこそ町中に広がっていたのであった。学校の先生にも「役場行ったんだって!?」と聞かれたし、そのあと、5年経っても、10年経っても、20年経っても、久しぶりにあった昔の知り合いとか、あとその話を直接母から聞いた親戚などにそのことを言われた(苦笑)。「和泉ちゃんと言えば、役場に公園作ってってお願いに行ったのよね〜」と、それはもうまるで正月の酒のつまみのスルメを何度も噛むがごとく、何度もあちこちで言われた。ちなみに、驚きと恥ずかしさ(←多分そういうことだったのだろう)から回復した母が、その事件(?)のすぐあとのお正月の時だったか、親戚が集まってる時にその話を親戚たちに面白おかしくしている時に「も〜 びっくりよ〜、それがまた、クラスメイトのお父さんだったのよ〜 その奥さんがおしゃべりでね〜」てな調子で話してて親戚も皆ばかうけしてる様子を見て、私は別に傷ついたりはしなかったが、これって、そういうタイプのネタなのかな〜??とぼんやりと思った。だがやはり、どうしてそんなにそれが面白ことなのか、まだ分からなかった。そのあと何年もしてからそのネタを話題として出される時もやはりイマイチ分からなかった。ドキドキもワクワクもしたが、自分は教科書に書いてあったからその通りに試してみただけだったし、ミッションをコンプリートした段階で、私にとってそのことは「もう済んだこと」であったから。
子供だった自分の突拍子のなさと、この顛末のおかしさみたいなものがなんとなく分かるようになったのは、多分高校生か大学生の頃だと思う。だが、やはり「なんとなく」だったと思う。そして母が感じたであろう驚きとある種の恥ずかしさが分かったのは、それこそ自分が親となってからだ(幼い頃の息子もそういうところがあったからであった)。
母が偉かったと思うのは、その母が感じた恥ずかしさみたいなものが私になんとなくは伝わってはいたものの、私がとった行動に関してネガティブなことをおそらくはあえて(そして一生懸命に。苦笑)言葉にして言わないようにしたのだろうと思われることだ。町で会う人とのやりとりの中でも、モゴモゴとはしていたものの、「本当に恥ずかしいわー」とか「困っちゃうわー」とかそういう言葉は発せず、ただ「ね〜 そうなのよ〜・・・ いやー 本当に〜 もごもご」にとどめていた。私が大人になってからたまに「あんたは本当に突然突飛なことするから・・・」と苦笑まじりに言っていたが、この時のことも頭にあったんだろういうのは想像に難くない。
ちなみに父は、母が死んだあと(つまりかなり後になって)の私との会話の中でふと「お前、役場に公園作ってくださいって言いに行ったことあったべ?」とこの話題を初めて(!)私に対して出したことがあった。「あの時、お父さん飲み屋で(!!)そこにいた人たちみんなに揶揄われてな〜〜恥ずかしかったな〜」と言うので、私が軽い気持ちで「嫌だったった?」と聞くと「そりゃあ、嫌だったさあ!!」と逆ギレ(??)されたことがあった。母が死んだあとで色々辛くてこのネタで娘に恨み節をぶつけて八つ当たりしたかったのかもしれないが(苦笑)、逆にそんなに嫌だったのに、当時の私には何にも言わなかったこと、父も偉かったと思う。
役場で私の相手をしてくれたお姉さんも、町長さんの代わりに私の話を聞いてくれたクラスメイトのお父さんの助役さんも、町で会った時にウケてたおばさん達も、近所のおばさんも、みんな温かかったと思う。母も父も、自分たちのメンツとか恥ずかしいと思う気持ちよりも、おそらくは我が子の資質を尊重しようして、あえて(多分、あえて)私に何も言わないでいてくれたこと、今振り返れば、とてもありがたかったと思う。
あの頃のような純粋さとか真面目さとか率直さとか、それに伴う行動力は今の私にはない(てか、われながら本当にバカでめでたかったいうか、ちょっとどっか外れてたと思うが)。まあ、あのまんまだったら周りも本人も結構困るだろうと思うが(苦笑)。でも、今でもたまに自分に起こる「思いついたら即行動パターン」を自覚する時(例えばいきなり走り出して5Kレース出るとか。笑)、これは私にトラブルをもたらすこともあるけど(あるある、ある〜)私の人生を面白くもしている私の一つの資質だなあ、と思ったりする。そしてそういう資質は、いつだって損なわれたかもしれない、と思う。例えば、そう、私が町長さんに公園作ってくださいと陳情に行った時やその後の人々の反応によって。特に両親や身近な人たちの反応によって。こういう資質が良い、ということではなくて、持って生まれたそういう資質が損なわれることなく歪曲されることもなく(まあ大人になるに従って、もちろん調整した/されたわけだが)、子供時代を過ごせたことをありがたく思う。そして小さな片鱗だけどそれが今の自分にもちょっとだけ残っているんじゃないかなーと思える瞬間があるのは、実はちょっと楽しい(家族とか身近な人は困ることもあるような気がするが。苦笑)。
posted by coach_izumi at 23:57| Slices of My Lifeー徒然ノート