2019年12月11日

母が亡くなって干支が一回りして振り返ること

母の癌がわかった時、最初は、何とか治癒して欲しいと思った。癌が無くなって欲しいと思った。そしてやがて、割とすぐに、癌が完全になくならなくてもいいから、寿命の長さの分だけ癌と共生してくれればいいと思った。母の容態が急変して文字通り生死の界をさまよって人工肛門(この呼び方、変えた方がいいと思うけど、とりあえず)をつけることになった後一人で苫小牧の温泉銭湯にみたいのに浸かっていた時、母の性格からしてもう2度とこういう場所で一緒に温泉に入ることはないだろうと思ってえらく悲しくなって泣けた(人工肛門でもお風呂、温泉はちゃんと入れる。ただ母の性格からして嫌がるだろうと思った)。その後程なく、どんな姿でも関係ない、構わない、ただ母が生きていてくれればそれでいい、だから生きて欲しいと強く思った。そして、脳への転移が分かって、余命は一週間ですと言われてすぐに熊本から苫小牧に行って、母の病室で寝泊まりしながら、痛みに苦しむ母の様子や強いせん妄状態にある母を毎日見た。結局余命一週間宣告を受けてから10日ほどで母は亡くなったが、その10日間、私は実家に着替えを取りに戻る時に、祖母の家から引き継いで実家に置いてあった仏壇にお線香をあげながら、毎日おじいちゃんとおばあちゃんにお願いして祈った。早く母を連れて行ってあげてください、早く苦しみから解放してあげてください、と。

そんなことを祈りながら、この段階的な自分自身の変化を振り返って、人って適応するんだなー、なんてことをその当時に感じていた。病状の進行に応じてある意味適応している自分にちょっとびっくりした。そして母が亡くなったあと、私の中で母はすぐに「死んだ人」になった。感覚的にはShe is so deadだった。まだ生きてるみたい、とか、信じられない、とか全然思わなかった。母は、あっという間に、完璧に、私にとって、「死んだ人」になった。でも、父は、母の生前も、死後も、ほぼほぼ適応できていなかったと思う。母の病気の現実が見えていなかったし、見ようとしていなかった。さすがにあと一週間ですと宣告された時は、もうすぐ死んじゃうだということは分かっていたと思うが、でも、何かが麻痺してしまった子供のような感じだった。じきに病室を引き払うことになるからと、ちょっとづつ病院から母の身の回りのものを家に持ち帰っていた私とはえらい違いだった(そういう自分もどうかとは思うが、私はそういう人なのであった)。亡くなった後のお通夜やお葬式では実務的には全くファクションできてなくて、初七日にお坊さんや親戚を迎えるために家を片付け掃除してヘトヘトになってる娘を尻目に一人でインタスタントヌードルを食べて(←食べ物の恨みが残るムスメ)、「涙が止まらないさ」と言って、メソメソ泣いていた。適応できない最たる例をそのまま生きてた父はでアルコール依存症になり(てか母が亡くなった時すでにそうだった。当時は知らんかったが)、結局3年してから、いわゆる後を追うように、亡くなった。

父が頼りないとか私がしっかりてしてたとか、そういうことではなく(いや、それはそうだと思うが、それは今回のポイントではない)、父は情があって私は冷たかったということでもなく(まー、そうかもしれんが)、まー、なんだ、こういう風に振り返ることができるくらいの時間が経ったんだなー、と思う。上記の自分の変遷について、記憶があるうちに書いておきたいと思っていたが、でも書けるようになるには、干支が一回りする必要があったということなのかな。

あと3週間で今年が終わって、来年になってからまた干支が一回りするころ、私は何を記しておきたいと思うのだろうか。

posted by coach_izumi at 09:35| Slices of My Lifeー徒然ノート