26才のとき当時勤めていた会社を辞めてアメリカのオハイオ大学の大学院に留学した。その時に多くのアジア人の友人と出会ったが、その友人がみな、日本のことについてとてもよく知っているし興味を持っていることに驚いた。そして一方、自分は同じアジアの人間なのに彼らの国や文化のことを何も知らない、ということに我ながら驚いたし恥ずかしくも思った。だから、そのうちいつかアメリカだけじゃなくてアジアにも住みたい、と思うようになった。
無事に修士号を取得したあと、上記の思いもあって台湾で中国語を勉強することを選んだのは、諸々の縁や理由があったけれども、実は祖父母や父の影響が根底にあったと思う。
昔日本が「満州」と呼んでいた地域に、父と祖父母は、(正確なところは分からないが)5〜6年の間暮らしていたのだと聞いている。そこでは良い思いもしたようだが、かの地で終戦を迎えた彼らは、相当に悲惨な体験をして日本に戻ってきたらしい。そのせいか、私は当時のことを父からも祖父母からもほとんど聞いたことがない。それでも、祖母と父はたまに断片的なことを--楽しかったことも辛かったことも--話してくれたことがあって、たとえば祖母が「豆腐はトォーファーと言うと覚えた」とか(私の知識ではどっちかというとドゥォーフゥなんで、それは「豆花」のことじゃないかと思うんですけど、それはさておき)、市場に行って買い物をする時は中国語ができなかった祖母の通訳を父がしてあげたとか、そんな話だ。ただそれだけのことなのだけれど、幼い私の中には異国の市場で連れ添って歩く祖母と父の姿(の想像図)が、まるで映画のワンシーンのように思われた。
そして、祖母と父は、別々になのだが、日本から朝鮮の港に着いて当時暮らした吉林省に向かう汽車の中から見た景色についても私に話してくれた。
祖母は言った。
「もう、夕陽がでかくて、でかくて、いやあ、でっかいなあ、と思った」と。
父は言った。
「いやああ、もう、でかくて、でかくて、でっかいとこだなあって思ったなあ」と。
そして幼い私の中に、「でっかいとこに沈むでっかい夕陽」の強烈なイメージが刻まれたのである。
そして幼い私は思った。
「そんなでっかいとこに沈むでっかい夕陽、見てみたいなあ」と。
私は結局中国本土には長く住むことはなかったし、そういう景色を見たこともない。また、後年私が感じた中国語の魅力や台湾や上海の面白さは、そういう景色とはあんまり関係がない(笑)。それでも、祖母や父の思い出話の「影響」がなかったら、きっと、中国語を勉強することはなかっただろうと思う。
台湾に1年間住んだ後、テキサス大学の大学院に進学した。そこで、異文化間コミュケーションに関する博士論文の執筆のため「フィールドワーク」なるものに行くことになり、色々な人に助けてもらって、夏休みの間上海に滞在することとなった。
アメリカから日本に一度帰国してそこから上海に向かう、という時に、北海道に住んでいた祖父母の家に行った。最初にアメリカに留学すると言ったときは「わし、満州で大変な思いをしたから、孫子の代まで、もう、絶対に外国には行かせたくないと思ったのに・・・」と言っていた祖母は、そのころにはもう何も言わなかったけれども、中国に住んでいたころのことについて、祖母や父とは違いそれまで一切何も話さなかった祖父が、いきなりこう切り出したのである。
「もしも上海で、チュアンシャン、って知ってる人がいたら・・・」
「チュアンシャン」は「船山」の中国語の発音である。中国で働いていた祖父は(まあ、祖母もですが。さすがに自分の名前なんで)当然自分の名前を中国語でどう言うかは知っていて、おそらく、当時はかたことながらも中国語を話せたのだろう。とにかく、当時のことについて、それまで何一つ語ることのなかった祖父が、突然思い立ったように、「もしも『船山』って知ってる人がいたら・・・」と言いだしたのである。
その瞬間、驚いたというよりは、「はぁ・・・?じ、じいちゃん、何言ってんの???」という思いで、私はほとんど「凍った」。
だって・・・だいたい、上海と吉林省、すごく離れてるし、あの、すごく年月たってるし、てか、中国、人多いし、いや、そういうことじゃなくて、あの、そもそも、「船山」って知ってますか?とか聞いてまわらないし・・・いや、あの、聞いてまわっても、きっと、知ってる人、いないから、間違いなく、いないから〜〜〜!!・・・
みたいな思いが一瞬駆け巡って、「でも、もう年寄りだから、そういうこと、分かんないのかも」みたいなことも思って、でも、こっちが道理を言っても分からないかもしれないし、傷つけたら可哀想だし、とか、私は一瞬ほんとに狼狽したというか、「ど、ど、どうしよっっっ」とあせった。
その「凍った」瞬間が果たしてどれほど続いたのかよく覚えてないけれども、さらに話(てか私に対する依頼?)を続けようとしていたかのように見えた祖父は、やはり突然、「あ、まあ・・・あれだな・・・・」みたなことをぶつぶつと言いだして、話を中断して、その会話からフェードアウトした。
一瞬のことだったと思うけれど、上記の思いが駆け巡ってすごく「困っていた」私は、祖父がフェードアウトしたことで、心底ほっとしたのをよく覚えている。けれども、その時のことを後でふと思い返すことがあって、「おじいちゃんは、あのあと、何を言いたかったのかなあ」と、あれこれ想像した。だが、とにかく、祖父は本当に当時のことについて何も語らなかったので、想像のタネもあまりなく、未だに全く分からない。ただ分かるのは、そこには私には計り知れないものがあるのだろう、ということだけだ。
そして月日は流れて2015年。平成の世である。そして春節である。
春節だな〜、と思うにつけ、20年前に最盛期を迎えてその後盛り返す事も進歩することもなかったどころか、錆び付きまくったあげくにほとんど消えてしまったしまった自分の中国語について、つくづくと残念に感じる。まったく20年も何してたんだか、どうしてずっとさぼっちゃったのかしらん・・・と自分を呪うのは、まあ、別に珍しいパターンではないのだけれど、今日はとっても久しぶりに、そういえば、子供のころにおばあちゃんとお父さんの話を聞いて中国に行ってみたいと思ったんだよな〜、とか、だから中国語の勉強してみたいと思ったんだよな〜とか、思い出した。
そして、もうひとつ、思い出したことがある。
台湾での1年間の留学を終えて、日本に一時帰国・滞在をしてからテキサス大学の大学院に入学するためにアメリカに戻る時に、当時茨城県に住んでいた父母が成田空港まで車で送ってくれたときのことだ。
ゲートの中に消える私の背中に、父が大きな声で叫んだのである。
「中国語、忘れるなよ〜!!」と。
その声を聞いた時、ああ、お父さん、ほんとは中国語忘れたくなかったのかな、と、私はふと思ったのだ。
4才くらいの時から中国で暮らしていた父は、近所に子供は中国人の子供しかいなかったこともあり中国語がぺらぺらになったということだ。父は中国にいたころのことを断片的に語る中で「だって中国人の子供しか近所にいないから、そりゃあ、しゃべれるようになるべ」と言っていたし、他にも「めんこをして一緒に遊んだ」みたいなことも言っていたので、大人の世界には色々あっても、子供には子供の世界があって、父はそこに居場所を持っていたのだろうと思う。そして4才で日本を離れた父にとっては、その近所の中国人の子供たちとの中国語を介しての関わりが、当時の父の「社会」の中で大きな部分を占めていたのだろうと想像する(日本人の学校に通っていたらしいが、父の家はその学校から遠かったので、そこの日本人の子供たちとは学校の外ではほとんど交流がなかった=遊ばなかった=ということも言っていたので)。つまり、中国語で遊ぶこと、中国語を話すことが、当時の父にとっては生活の中で欠かせない一部となっていたのだ。だから、戦後、9才くらいの時に日本に戻ってからも何かの拍子に中国語を話すことが多々あったらしい。
ある時、学校の先生に怒られた時に(おそらく思わず)中国語で言い返したら、ものすごおおく叱られて、こっぴどく殴られたということだ。そしてそれ以来中国語を全く話さなくなり、すっかり忘れてしまったとか。多感な時期の子供だった父は色んな意味で傷ついただろうなと思うが、父自身は別にそのことについて後年どうこう感じている様子でもなかった。
だから、その時成田でその叫び声を聞いた時、意外に感じて驚いたのだ。
まあ、せっかく身につけたものなんだし、役に立つスキルから、忘れるなよ、ってくらいの気持ちだったのかもしれないけど、私の思い込みなのか、はたまた親子の絆ゆえか(?笑)、あの時、どこかにずっとしまこまれていた父の思いのようなものが--それが果たしてどのような思いなのかは分からないが--ふっと表出したように、感じたのだ。
そういえば、台湾留学中に一時帰国したとき、旅館か祖父母の家かで同じ部屋で父と寝ていたときに、私が寝言で中国語を話していたらしく、そのことを私やひとに話す時、父はなんだか嬉しそうだったな。
ああ、それなのに。
今は亡き父よ、ごめんなさい。
あなたの娘は、あれだけお金と時間をかけて学んだ中国語を、すっかり忘れちゃいました。
とほほ。
・・・・・せめて日常会話レベルができるくらいには、勉強し直そうかな・・・もうすぐ50才だし、これが最後のチャンスかも・・・
などと、つらつら思う、今日は春節。
新年快樂。
2015年02月19日
父と祖父母と中国語と私
posted by coach_izumi at 15:17| Slices of My Lifeー徒然ノート