2015年10月20日

10月20日

記憶にある最初の友達はN美ちゃん。3才くらいの時から一緒に遊んでいた記憶がある。N美ちゃんは喘息持ちだったので、時々学校を休んだり、外で遊べなかったりということがあったけれど、でも通常は元気で、ちょっと勝手で意地悪なところもあって、でも、一緒に遊ぶと楽しくて、なんだか人を惹き付ける魅力のある女の子だった。子供達の間においての権力というかカリスマのある女の子。ちょっと不思議なところがあった。同じ小学校に入学して(てか、町に一つしか小学校かなったし)彼女と私は同じ『仲良しグループ』のメンバー(?)として小学校時代を過ごした。中学2年の時に茨城県に引っ越した時、クラス単位でのお別れ会の他に女の子5〜6人で送別会をしてくれた、その筆頭の女の子。

その子が交通事故で亡くなったと聞いたのは、浪人生だった18才の時。共通のお友達のお母さんから電話があって、知ることとなった。 “そういうこと”は初めてだったので、悲しいとかどうとかいうより、想像もしなかった突然のできごとが、ただただ、ものすごくショックで、人生で初めて号泣した。自分で車を運転していて追い越しをかけたところ、対向車とぶつかったということだった。事故が起こったのも、N美ちゃんが亡くなったのも、10月20日だった。

親の許しを得てわりとすぐにその女の子の家に行ったけれども、しょせんは若い女の子(=私)の自己満足のためにすぎず、その後数回北海道に戻った時にお参りさせてはもらったものの、もちろん何ができたわけでもない。

18才という、まさに人生の花がこれから咲こうとしているその時に逝ったN美ちゃん自身の無念もさることながら、残された親御さんの気持ちたるや、自分が子供を持つようになった今になっても、想像することも難しい。お父様とN美ちゃんはN美ちゃんが出かける直前に口論をしたということで、臨終に間に合った仲の良い別の友達が言うには、「N美、おとうさんに言いたい事があるんだろう」とお父様が声をかけ続けていたということで、自分も悲しかったけどそのお父さんのご様子があまりに可哀想であったと、いうことだった。

そう、私は何ができたわけでもない。
ただ、おそらくは生まれ育った町から思春期のど真ん中に遠く離れることとなって数年たっていたので「去る者日々に疎し」というような感覚を抱くことが、そしてそれを少し寂しく感じることが、その年頃にしては多かったのかもしれない。

だからなのか否か、今となってはどういう考えを巡らせたのか自分でもはっきりとは分からないのだけれど、死んでしまった友達にはもちろん、残されたご家族にも何もできないけど、せめて、私は彼女のことを覚えていよう、と思った。そして私はN美ちゃんのことを覚えているよ、とご家族に伝えようと思った。それしかできないし、それが自分にできるベストの事だと思った。

だから、それから今にいたるまで30年、多分、2〜3回くらい、あちらが不在で誰とも話せなかったり、私が電話できなかったり、ということがあったのだけれど、ほぼ毎年、10月20日の彼女の命日に、N美ちゃんのお宅に電話をかけ続けた。N美ちゃんの妹さんのこともお母様のことも、私はよく知っていたので、電話をかけることはそれほど不自然なことではなかった。東京、アメリカ、台湾、アメリカ、九州、そしてアメリカ、と移り住んだ私の連絡先すらもあえて知らせることはなかったし、他の時にはほぼ一切の交流がなくて、私自身は年賀状すらも交換してこなかったけれど、東京からもアメリカからも台湾からも九州からもほぼ毎年電話した。妹さんやお父様と話すこともあったけど、大体いつもお母様とお話した。

最初のころは若干しみじみと話をしたものの、そのうちただ「覚えてるからね」「うん、うん、ありがとう」というような会話を交わすようにになり、そしてN美ちゃんのことよりはむしろ互いの事に対して「元気かい?」「元気だよ」と言った言葉を交わすようになっていった。でも電話を毎年かけた。最初のころ、多分、十数年くらいは、「覚えていてくれてありがとう。嬉しい」と言ってくれていたけど、そのうち「声が聞けて嬉しい」と言ってくれるようになった。

自分の子供が亡くなるという悲しみは、10年、20年経ってもなくなったりはしないのだろうけれでも、それでもだんだんと穏やかなものになってゆくというか、形を変えてゆくのだなあ、と感じるようになったころ、ひょっとして、もう電話をしない方が良いのではないだろうか、と迷った。かえって、迷惑なのではなかろうか、と。ご家族の気持ちをみだしたり、ひょっとして不愉快にしたりすることも、ひょっとして、あるのではないだろうか、と。何回か電話をかけなかったうちには、そういう躊躇というか迷いゆえにかけなかったこともあったと思う。

ただ、19才のころから毎年続けてきたことであるせいか、不思議なくらい、忘れないのである。10月20日を。不思議なくらい、一度も忘れた事がない。10月20日の数日前に思い出すこともあったし、当日になってはたと思い出すころもあったし、色々なんだけれど、N美ちゃんのことを覚えていよう、と18才の時にまさに心に刻んだからなのか、忘れたことがなかった。そして昔からずっと変わらないN美ちゃんの家の電話番号も、一年に一度しかかけないのに、どこにもメモを残していないのに、30年の間なぜかずっと覚えていて、10月20日に電話しようとして困ったことが一度もない。実家や自分の以前の電話番号も覚えていないのに。

そして、私が熊本にいたころ、N美ちゃんのお父様と電話で話す機会があった。昔から町役場に勤めていたそのお父様が言ってくれたのは「私は町の教育委員長をしていたことがあるんだけれど、その時に、町の広報紙に『10月20日』というタイトルで文章を投稿したことがあるんだよ。その時、毎年、N美のことを忘れずに電話をしてくれる幼なじみのこと、和泉ちゃんのことを、勝手ながら書かせてもらったよ。大学の先生をしていると聞いていたから、こういう先生に教わる生徒さんは幸せだ、って書いたんだよ」ということだった。

私の生徒(大学では「学生」と呼びますが)が、幸せだったかどうかは知る由もないし、どちらにしても、私が10月20日に毎年N美ちゃんの家に電話したことと、別に関係ないとは思うんだけど、N美ちゃんのお父様がそう思ってくれたのなら、少なくとも迷惑ではなかったのだな、と思う事ができて、嬉しいというよりはほっとした。

その後、母が死に、父が死に、その『10月20日』という文章を書いてくださったN美ちゃんのお父様もちょうど私の母が死んだのと同じくらいに急死されたということだ。

N美ちゃんのお母様とは、N美ちゃんのことよりもむしろ、そんな訃報について報告し合い話をすることがここ数年は多かったように思う。

アメリカはまだ10月19日なんだけれども、ああ、日本は10月20日だなあ、とやっぱり思い出してしまった。やっぱり少し迷ったけれど、N美ちゃんの家に電話してみた。

なんといっても、10月20日の1年に一度だけ電話で話すだけだから、わたしが「おばさん」と呼びかけると、いつも「誰だろう?」といぶかしがっている様子がこちらに伝わる。そして「和泉だよ」と言うと、いつも、「ああああ〜〜、和泉〜〜」と驚いて喜んでくれる。さっきもやっぱり、おんなんじだった。そしてとても元気そうだった。

「今ね〜、雨が降っててね〜、お墓に行きたいんだけど、ちょっと待ってるんだ〜」といきなり教えてくれた。そう、私がどうして今日電話したのか、もう、二人とも、何にも言わないけど、もちろん、分かってるから。

そして少し近況報告なんかをし合って、

「おばさん、一人で暮らしてるの?」
「そうだよ〜。一人でがんばってるよ〜」
「N美ちゃんの分もね、元気で長生きでね」
「そうだね、そう思ってがんばってるよ〜」

そんな会話を交わした。N美ちゃんの分も元気で長生きしてがんばろうと思うよ、という言葉を私に言えるようになるまで、その年月を含めて、どれほどのものがあったのか、私に分かるわけもないのだけれど、でも、良かった、と思えた。

「み〜んな(=共通の幼なじみの友達のこと)、いろんなことがあったよ〜、変わったよ〜。み〜んな、いい年になっちゃったよ〜。N美だけが、18のままさ〜(北海道弁)」」と言うN美ちゃんのお母様。

N美ちゃんだけが18のまま。N美ちゃんの時間だけが、止ったまま。きっとずっとその止った時間を抱えて、その止った時間とともに、30年間、おばさんは生きてきたんだなあ、年をとってきたんだなあ、と思うと、切なさに圧倒される。

そして、N美ちゃんが生きられなかった30年を、「私は」生きてきたんだなあ、と思う。生きてこられたんだなあ、と。それも、わりと幸せに。

この30年間、10月20日は亡き友のこととそのご家族のことに思いを馳せるだけではなくて、その友が生きられなかった時間を生きることができた自分というものに思いを向ける日でもあったのだ、と、いまさらながら気がついた。

N美ちゃんのお母様は「N美に和泉が電話くれたって話て来るからね」と言って電話を切った。

来年の10月20日も、私はきっとN美ちゃんのことを思い出すだろう。そして電話をするべきかどうか、ちょっと迷って、やっぱり電話するだろう。
きっとおばさんは、最初はちょっといぶかしがって、私が「和泉だよ」と言えば、「あああ〜、和泉〜」と返してくれて、これからお墓に行くんだよ、とか、もう行ってきたんだよ、とか、報告してくれるに違いない。

そして、N美に和泉が電話くれたって話しておくね、と言ってくれるだろう。
30年の間、ずっと、10月20日私が電話をすると、いつもそう言ってくれたから。

posted by coach_izumi at 12:07| Slices of My Lifeー徒然ノート