2018年08月23日

この夏、茨城で再会できた場所

この夏、短い期間ではありましたが、一人で日本に帰国する機会があり、その時のある体験を綴りました。この文章を読んで「今回の日本ひとり旅は船山さんの半生を振り返って今後の残りの人生を考える意味合いもったものになりそうですね」と言ってくれた友人がいて、自分でははっきりと意識してませんでしたが、そうなのかもしれないなあ、と思って、以下、シェアします。

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単独で帰国というなかなかない機会に、念願だった水戸そして笠間訪問を実現(家族と一緒だと茨城に行く日程を立てるのは結構難しい)。笠間は14歳の時に北海道から引っ越してきてすぐに5年間住んで、そこで中学を卒業して高校に通った。

せっかくだからとその頃に借りて住んでいた家があるあたりに行ってみようと思って、猛暑の中歩いた。きっともうあたりの景色も変わってるだろうし家もないだろうと思って。

記憶を辿って道なりに歩いて行くと、目の前に広がったのはあの頃と同じ風景だった。同じ田んぼの風景。そしてあの家。私たちが借りて住んでいた頃の、そのままの家。取り壊されてもいなく、リフォームもされていなく、もう朽ち果ててるとしか言いようがない状態の、でもあの頃のままの家。驚いたのなんのって。

ほとんど驚愕して家の前まで行って、玄関の戸に手をかけると開いた。どうも今まさに取り壊しかあるいはリフォームかの最中らしい様子で、でも土曜日だから働いている人は誰もいないタイミングのようだった。
私は家の中に入らないではいられなかった。いかにも工事中、という感じで床も壁も壊れて剥がれていたけど、茶の間のスリガラスの戸はあの頃のままだったし、そこに住んでいた頃の思い出が蘇るには十分だった。
北海道で生まれ育った私たち家族にとって茨城への引越しは、まさに人生の一大事であったし、結局一大転機となったと思うが、笠間に住んでいた最初の2−3年は私たち家族にとって試練の時であったと思う。

私は転校してしばらくして登校拒否になった(とは言え、通算で4−5日のことだったと記憶してるが・・・だが母は相当狼狽したと思う。気の毒であった)。父は仕事がど〜もパッとしないようであった(その後結局会社辞めちゃったもんね)。「みんなとカラオケに行っても歌えないから」と父はカラオケのセットかなんかを誰かからら借りて家の中でなんかの歌を練習してたことがあったが、そういうことは(そういういかにもサラリーマン的に人に合わせることも人前で歌うことも)全く父の性に合うことではなかった(と今になってよく分かる)。母は癌になって入院して手術をした(その時は治った)。母の病気のことで父はやたら落ち込んで高校受験を間近に控えた娘のことなど全く気が回らず家のことも全くせずやたら暗かった、どころか、娘が慣れない手つきで一生懸命父のために作った夕食を「まずいな」と言って残した(何なんだこのオヤジ、と本気で思った)。

両親はあの頃大変だったんだなあ、と、思いながら、ここにテレビがあって、当時人気になった「北の国から」というドラマを家族3人で食い入るように見たなあ、なんてことも思い出した。あの頃の私たちにとってあのドラマはとても特別なドラマだった。

窓が締め切られた埃っぽい朽ち果てた家の中で、汗がダラダラ流れて「熱中症大丈夫ですか?」って感じだったけど、その家を立ち去り難く、長いあいだ家の中にいてうろうろしたりぼーっとしたりしていた。涙腺が弱いのは年のせいだけど、やっぱり泣けてきた。てか、おいおいと泣いた。

しばらくしてからその家を後にして、家の裏手の坂道を登ってすぐそばにあった笠間中学まで行ったり(授業の鐘も部活の声も家まで聞こえるくらい家から近かった)、やっぱり家から歩いてすぐのところにあった日動美術館に行ったり(数は少ないが、モネやピカソやゴッホやらの名画を誰もいない部屋でゆっくりと見れた)、そこからまた歩いて笠間稲荷に行ったり、友達から教えてもらったカフェでアサイーボールなるものを食べたり、そこに売っていた笠間焼のちょっとしたものを買ったりした。

茨城では本当に久しぶりの人たちに会えて楽しい時間をすごせてとても嬉しかったけど、この家とまた会えたことが、やっぱり一番のハイライトだったかな。
posted by coach_izumi at 09:43| Slices of My Lifeー徒然ノート