父の正確な命日は分からない。
父は自宅で一人で死んだからだ。
近所に住む父のいとこの一人が毎週土曜日に父の様子を見に父を訪ねてくれていた。そして年末が迫った土曜日にいつものように父を訪ねてくれた。その翌日の日曜日に「なんだか嫌な予感がした」からと家に行ってくれて、父が居間の床に寝た状態で亡くなっているのを見つけてくれた。
明後日には家族で北海道に帰省しようとゆっくり過ごしていた年末の日曜日の午後、その父のいとこから私の携帯に電話があって知らせを受けて、すぐに飛行機のチケットを取って千歳に飛んだ。最初は無理かなと思ったが、奇跡的に、夜中近くにはなったが当日中に父が一人で住んでいた実家に到着することができた。
第一報を受けた時の正直な気持ちは、ホッとした、だったと思う。癌を患っていたが、頑として病院にも行かず在宅ケアも受けず熊本に住んでいた私のところに来るなんて論外、だった父はアルコールに依存するようになっていた不良病人だった。父自身については、心配は心配だったがもう本人がしたいようにしてくれればいいとは思っていた。だが、他の人を巻き込んだトラルブを起こさないかとそちらの方が心配で、気が気でなかった。だから、一人でただ死んだ、ということにホッとした。ああ、終わったんだな、と思って、体の力が抜けたような感覚を覚えた。
実家に到着すると、父と兄弟のように育った、電話をくれた父のいとことその兄弟たちが父のそばにいてくれた。私はなんとなく、病院で亡くなった母を家に連れて帰ってきたすぐ後の時のように、父が病院のパジャマを着て普通の布団に寝ているんだろうと思っていた(病院にはいなかったのに)。でも、父がいる部屋に行って私が見た光景は全く違った。
父のいとこたちが全てを手配してくれて、父は葬儀屋さんが準備してくれた綺麗な掛け布団をかけられていて、その上にはやっぱり綺麗な袈裟のような布がかかっていた。その上にはご丁寧に懐剣まで置いてあった(入れ物だけで、本当の剣は入ってないが)。父の横にはお線香が立てられていて、父の顔には白い四角い布がかかっていた。
なにこれ。まるで死んだ人みたいじゃん。と私は思った(死んでいるんだが)。
なに、お父さん、なに、死んだ人みたいになっちゃってんの?(だから死んでいるのである)と頭の中で叫んだ。
そのまるで葬儀屋のパンフレットみたいに綺麗に整えられたすっかり出来上がった光景に、私は衝撃を受けた。お父さんが死んじゃった、と思った(だから死んでるんだって)。そして私は、まるで下手な芝居のように、その場で膝から崩れ落ちて、堰を切ったように、父の横で号泣し始めた。なんで、なんで、と、実際に絞り出すように言葉にしていたような気がするが、頭の中だけで言っていたような気もするし、定かではない。いずれにせよ、なんで、なんで、と私は何度も言った。なんで勝手に一人で死んじゃってるわけ。なんであと二日待てないわけ。なんで、なんで。
そして、ばっかじゃないの、と思った。実際に口に出して言ったかもしれない。ばっかじゃないの、最期まで意地はって。ばっかじゃないの、私に会いたかったでしょうに。ばっかじゃないの、こんな死に方して。ばっかじゃないの、なんでもうっちょとだけ待てないかな。ばっかじゃないの。(死んだばかりでいきなりたった一人の実の娘に罵倒される父も気の毒なことであった。)
嗚咽が止まらなかった。私は慟哭し続けた。朝まで大声で泣き続けられるような気がした。
全く泣き止まない私を見かねてか(そばにいた父のいとこ達も困っていただろうし)、夫が、「お父さんに会ってあげないと」と、父の顔の上の白い布を取るように私に促した。ほっておいて、私はただこのまま泣いていたいんだ、死んだお父さんの顔なんて見たくないよ、見たらほんとに死んだことになっちゃうじゃない(だから死んでるし)、とちらりと思ったような気がするが、さすがに言われるままに布を取った。現れた父の顔は痩せてて強張ってて、私は、なにこれ、と思った。こんなのお父さんじゃないよ、と。だから私はまたすぐに白い布を父の顔にかけた。
父のいとこたちたちが帰って、まだ小さかった息子を寝かせたあと、夫がお父さんと飲もうか、と言ってくれた。
肝臓癌を患っていた父にアルコールは厳禁だったが、母が死んで3年の間にすっかりアルコールに依存するようになっていた。いくら止めてもやめるわけもなかったので、だったらもう最後のお正月かもしれないんだしどうせ飲むなら美味しいお酒を持って行ってあげようかと考えて、結構いいお酒を買って準備していた。急な帰省とはなったが、私はそれを忘れずに持ってきていた。ティッシュにお酒を湿らせて父の唇を湿らせてお酒をあげて、そのあと夫と二人で小さなグラスで乾杯して父と一緒にお酒を飲んだ。夫と何を話したか覚えてないが、その時間で少し慰められたような気がした。
母の時には行った納棺の儀は、父の時にはしなかった(実家のある地域ではするのが一般的だった)。なんだかする気になれなかった。通夜を済ませ葬儀を済ませ、年が明けて、父と一緒に食べようと注文しておいたおせち料理を夫と息子と実家で食べた。そのあとすぐに夫と息子には夫の実家に行ってもらって、私は初七日までとそのあと数日を一人で実家で過ごした。
年末年始に当たったので諸々の手続きのために関係各所に行くこともできなかったので、昼間は実家の片付けをして過ごした。家は処分しなければならなかったから、写真を含めたたくさんのものを整理して処分した。夜は年末年始のくだらないテレビをぼーっと見て過ごした。お正月休みが終わったあとは市役所に行ったり銀行に行ったりする道を歩きながら北海道の冬は寒いなーとつくづく思った。晴れた日もあったはずだが、その時のことを振り返ると、どんよりとした空しか思い出せない。
熊本に帰らないといけない日が迫ってきて、さあ父のお骨をどうしようかと思った。四十九日の納骨の日までは、家の祭壇にお骨を置いておくのが私の実家の地域での習慣だった。抱えて帰ってまた四十九日の時に持ってこようかなー、と考えていたが、父を見つけてくれた件のいとこが「まさか飛行機に持って乗るわけにも行かないだろから、置いていけ。かわいそうだけど。ちゃんとお線香をあげに来るから」と言ってくれた。誰もいない家にお骨を一ヶ月以上も置いておくって、ありえない、と感じる人は世間には多いのではないかと思うが、船山家とその親戚は、こういう、合理的なところがあった。そのいとこがそう言ってくれるならと、私はそうすることにした。そう、骨壷に、父がいるわけではないのだから。
熊本に帰って、福岡に単身赴任していた夫も福岡に行って、普段の生活を再開させる日がきた。年明けの初出勤だ。基本的にワンオペ育児をしていた私は就学前の息子を寝かしつける時に一緒に寝て、朝の3時とか4時に起きて、家で仕事をして、息子を通常よりも早い時間に保育園に預けて職場に行くという生活をしていた。その日も同じようにして、朝7時半頃に勤務先の大学に到着した。
北海道ほどではないにしても、1月の寒い朝だった。少しもやがかかっていたような記憶がある。いつもの駐車場に車を停めて車から降りた私はなんとなく暗い気持ちでいた。重く感じる体を引きずって自分の研究室があった建物に向かおうとしたその時、私がいた場所から10mほど離れた別の建物の外から中に続く階段の手すりのような所で一匹の猫が座っていて、こちらを見ていることに気がついた。
その猫は、ちょっと体がデブっとしていて、体に縞のようは斑点のような模様が合って、ちょっと薄汚れてふてぶてしい感じで、私は、なんかちょっとお父さんみたいだな、と思った(父の名誉のために言うと、別に父が薄汚れた感じの人間だった訳ではないのだが)。
猫は、私が駐車場に来る前からそこにいてずっと私を見ていたんだろうと思わせるほどに、微動だにせず、そこにいて、私をじっと見ていた。見ているように感じた。私も猫を見返した。私たちは、しばし見つめ合っていた、と思う。
「お父さん?」
お父さんだったりして。お父さんならいいのにな。そう思ってそんな風に声をかけてしまったのは、猫という動物が私にとってはちょっと不思議な存在だったからだと思う。するとその猫が、ぎゃおおおおおん、ぎゃおおおおん、と、さきほどからの姿勢を全く変えることなく、威嚇するかのように、怒っているかのよう数度鳴いて、その鳴き声はまだ誰もいないもやのかかったキャンパスに響き渡った。
私はまるで 父に、もしくは猫に、「しっかりしろ」と言われているような気がした。その鳴き声の激しさに驚いたものの、私は思わず「お父さん、私、大丈夫だから。頑張るよ。頑張るから」とその猫に向かって叫んだ。
そのあと猫に背を向けて研究室がある建物に私は向かったが、その私を猫はじっと見送っていたように感じた。
それから数度、同じ時間帯に同じ駐車場に車を停めた冬の朝に、同じ猫と会った。猫は毎回同じ場所にいて同じように私を見ていたが、熊本に早い春が来る頃にはいつの間にいなくなって、その後その猫を見かけることは2度となかった。
2019年12月29日
父が死んだ時のこと
posted by coach_izumi at 14:45| Slices of My Lifeー徒然ノート