2014年04月23日

「語り」と私

ある人とのやりとりをきっかけにして、「語り」というものについて、あらためて考えようと思いました。

私は大学の研究者であった時、研究の方法として「語り」の分析を多用していました。以下、私が3年ほど前に書いた論文からの抜粋です。

ーーその定義や焦点は分野によって様々であると言えるが、どの分野においても「語り」の分析は、客観的な現象としての唯一の「真実」の解明を目指すものではない、ということは共通しているだろう(Manelis Klein, 2001)。「語り」の分析では、出来事そのものよりもその出来事の「意味」を解明することが大切で、またその意味は出来事を「語る」者によって定義されることを前提とする。

そして10年ほど前に書いた論文の中で私は「語り」を以下のように定義しました。

−−個人が体験した(あるいはしている)特定の出来事を言語に置き換える行為であると同時に、特定の他者を対象としその他者との関係においてその体験が理解・共有されやすいように言語という表現方法を通してその体験の意味を(再)構築する行為及び(再)構築された内容。

ちょっと小難しい感じなんですが、今コーチをしていても、またレゴ・ブロックを使ったワークショップをしていても、自分は「語り」に対して同じ考えを持っていてそれに基づいて仕事をしているな、とあらためて感じます。

Everybody has a story.

研究者であった時も、そして今も、ずっとこの信念を持っています。

みな、「語る」べきストーリーがあって、それはそれぞれ、大切な意味を持っています。
逆に言うと、「語る」ことによってこそ、ストーリーは見いだされ創造されます。

そして、私たちはストーリーを生きることによってこそ、「生きて」いるのだと、私は思っています。

そして、そのそのストーリーの意味は語り手が決めると同時に、聞き手や語り手をとりまく社会や文化がともに構築するものでもあります。

その意味を見いだし、また(再)構築する、そこに関わる人でありたい。

仕事が変わっても、住む場所が変わっても、そのストーリーに耳を傾ける相手が変わっても、自分は、実は根底では同じ事を、ずっとし続けているのかもしれない。

そんなことを考える、春の雨が降る朝でありました。