2017年05月03日

自分がハッピーじゃない原因を探し続けて「モグラ叩き」をずっとしてても疲れると思うのである

私の夫はエンジニアでなんかやたら細かいというか小さい(単位はナノ。いつも今開発してるのは何ナノなの?とくだらならいダジャレを連発してるのは私だけです。笑)工業製品(?)の研究開発の仕事をしている。研究開発、と言っても、じっくりゆっくり研究というよりは時間のプレッシャーに押されながらの「開発」の部分が主たるところで、同業他社との競争の中で締め切りまでに問題なく機能する高品質の製品を開発しないといけないらしい。それで、色んな実験とか試行錯誤を繰り返して同僚やボスや部下と侃侃諤諤とやりとりしながら日々開発の仕事に取り組んでるのだが、そういう彼の日々の仕事の様子の話を聞く中で、ちょっと面白いなあ、と思うことがあった。

製品を開発する上での実験や試行錯誤はもちろん失敗を伴うわけで、その失敗やうまくいかない原因をきちんと検証することなしには開発は成功しない。で、なんてったって単位がナノなので(ナノなの。。。笑)かなり細かくマニアックに検証するのは間違いないところなんだろうけど、彼曰く、だからと言って、どこまでもどこまでも根本的な原因をあらゆる面から多角的に追求すればより良いかというとそういうことでもないんだとか。いや、それはその方が理想的かもしれないけど、なんてったってナノなの(ナノなの。。。しつこい?)で、どこまでだってどれだけだって追求できちゃうんであって、それをしてるとキリがないというか、研究は深まるかもしれないけど結局(タイムリーな)製品の開発にはつながらないんだとか。要は100%じゃないかもしれないけど(100%に限りなく近いけど、実際に市場に出て使用されてみないと分からないことは絶対にあるから、100%ではないということらしい)、ここまで分かったら十分分かった、というところでいわば見切って、次に進まないと製品は永遠にできないってことね(多分)。

で、何が面白いと思ったかというと、なんか(ベタですが)人生にも活かせる知恵のようなものをそこに感じたような気がしたのと、自分がコーチング界隈(笑)で以前からなんとな〜く感じていた、ある種の「違和感」を説明する入り口を見つけたような気がしたからである。

私たちの人生において何かうまくいかなかったりどこかしら不幸だったりなんとなくスッキリしなかったり、まあ色々、あるけど、もちろんそういうのにも原因はある。で、その原因は他のどこでも誰でもない自分の中にあるんですよ、と言うのは、コーチングでは割と常套句で、まあ、それはそうだろうなと思う。で、原因が分かれば「問題の解決」につながる、のだろうからと、一生懸命その原因を自分の中に探すのは別に悪くはないと思う。で、その原因を解消するのに時間やエネルギーをかけるのもいいと思う。その解消は、多くの場合、過去や現在の自分(の体験や感情)と向き合って、それを癒したり許したりないことにしたり(ポジティブな方向に)書き換えたり勇気を出して乗り越えたり、とか、そういうことかな、と思うが、大いにいいと思う。そういうことをコーチングでもやったりするし。

でも。。。でも。。。だからって、それが即そしてその場限りじゃない「問題の解決(問題が問題じゃなくなることを含めて)」につながるかというと、そうでもないんじゃなかろうか、思うのである。つまり、だからってじゃあ色々うまくいくとかハッピーになるとは、限らないわけね。いや、そういう場合も多々あると思うけど、そういう場合だけじゃない(そしてこっちも割と多いような。。。)。

で、後者の場合に、なんかまずいんじゃないかなあ、というか、私としてしっくりこないというか、違和感があるのは、じゃあもっと別の犯人がいるはずだ、とか、真犯人がいるはずだ、とか、黒幕がいて後ろで糸を引いているはずだ、という感じで、どこまでもどこまでもいつまでもいつまでも原因を探し、それを解消あるいは解決しつづけようとすること。そしてそういう場合の常として、いつまでたっても真犯人が分からなかったりとか、分かったとしても、やっぱり何度試してみても解消も解決もできないのである。

そんなことを見聞きしてたり目撃したりすると、そんなことやってたら、タイムリーに製品開発できないよ、というのと同じで、あのさ、そんなことばっかりしてる間に人生終わっちゃうよ?と私は思っちゃうのである。

それは、まるで「モグラ叩き」のごとく。あらあそこにもあった、私が自分らしくいられない原因、あ、ここにもあった、「本当の自分」が輝けなかった理由、お、実はほらそっちにもあった、なんだかXYZの元凶。。。と、そう、モグラ叩きのごとく、叩いても叩いても、キリがない。モグラ叩きが好きなら別だけど。やったらいい思うけど。それこそ好きなことをしてる人に対して私がどうこう言うのも思うのも余計な御世話であるからして。

もちろん、医学的であったり専門的であったりする「治療」や「治癒」が必要な場合は別である。が、そうじゃない場合、つまり割と多くの場合、に私がぶっちゃけ思うのは。

だってさ、だってさ、生きてりゃ、生きてりゃ、傷も埃もヘドロもたまるよ、あるよ、そりゃ、誰だって。
ってことだったりする。

人間やってりゃ、嫉妬することも妬むことも落ち込むことも憎むこともあるよ。見栄も張るし、嘘もつく。裏もある。ダークサイドもある。役に立たないどころか有害としか思えないこだわりとか思い込みとか、どうしたって消えない恨みとかつらみとか、あるよ。自分で自分を伽藍じめにしちゃったりとかね。そしてそういうものが原因で「生きづらさ」を抱えているのだとしたら、出来ることならその正体をちゃんと見極めてなくしたり乗り越えた方がいいいのだろうし、それがうまくいけばそれに越したことはないだろう、と、それは分かる。

でも時々思うのが、今度は逆にその正体をなかなか見極められなくて、或いはそれを乗り越えたり捨てることが簡単にできなくて、逆に「生きづらさ」を増大させている場合が結構あるんじゃないかしら、ってこと。

だからつい私は思ってしまうのである(ぶっちゃけ言っちゃうこともあったりするf^^:)。
いいんじゃないの〜〜??そのまんまで。
傷も埃もヘドロもあって、それで、いいんじゃないの〜?と。

大事なのは、より大事なのは、犯人を探すことじゃなくて、ましてやその見つけた犯人に余計に苦しめられることじゃなくて、そういうのをひっくるめて、それが自分だな、と認めるというか観念するというか、そういういわば清濁併せ飲むとでもいうのでしょうか、そういう度量とかいうか器量というかそういうのを自分で育てることなんじゃないかなあ。。。。なんて。

もちろん、この先、そういう傷や埃やヘドロ、なくなるかもしれない。なくせるかもしれない。でも、そういうのを抱えてんのが自分です、ってのをちゃんと受け入れて認めないと、もしくは、もうちょっと言うと、ちゃんと自分で「今のまんま」の自分を認めて受け入れることから始めないと、「この先」にはいけないんじゃないかなあ。

で、私は実は、本当に「この先」に行くのがそんなに大事か??って思ってる。
人生、短いのにさ、って。

生きてりゃ、傷も埃もヘドロもたまるよ。あるよ、そりゃ、誰だって。嫉妬することも妬むことも落ち込むことも憎むこともあるよ。見栄も張るし、嘘もつく。裏もある。役に立たないどころか有害としか思えないこだわりとか思い込みとか、どうしたって消えない恨みとかつらみとか、ある。あるって。あるんだって。それが当たり前だって。そして、それってそんなに悪いことかなあ、って私は思うのである。

だって、だからこそ、人間って面白くって愛おしいのではなかろうか。
だからこそ、私たちは例えば映画を楽しみ小説を求めるのではなかろうか。
文学や芸術が生まれるのではないだろうか。

あっちもこっちもどこもかしこもすっきりクリアー、完璧に癒されて乗り越えて凸凹のない綺麗なまんまる、とか、なんかうそくさい。そんな人ばっかりの世界に私はいたくない。気持ち悪いよ。
そんな人ばっかりだったら、文学なんて必要ないじゃん。元文学少女としては、あら、それは寂しすぎる。

「モグラ叩き」が好きなら別だと思うし、そういう人はいると思う。いっぱいいると思う。
そして、それはそれでいいのだと思う。それがその人のいわば好きで選んでる生き方だから。
意識的にせよ、無意識的にせよ。

でも、もしも、モグラ叩きが別に好きじゃないなら、やめたらいいんじゃないかな?
原因探し、犯人探し、それを解消したり解決したりことで得られるカタルシスを求めること。
と思ったりする。

製品開発の上で生じた不具合や失敗の原因を追求するのは必須かつ大事。でもそれはあくまで製品を開発するためで、不具合や失敗の原因についてどこまでもどこまでも何から何まで知る必要はない。きちんとした高品質の製品を作るに「十分な」だけ分かれば、それでよしとして、開発を進めないと、製品出来上がらないし、それがベスト、じゃないかもしれないけど、締め切りとか競争とか諸々の条件下の、いわば現況において、限りなくべター。

だから、今自分がハッピーじゃない原因探し、犯人探し、そしてその解消や解決、は、今とこれからよりハッピーに生きていったり生活するためするために「十分なだけ」にしとくのが。。。。なんか、健全で現実的じゃああるまいか?
ぶっちゃけ、多少の生きづらさ、抱えててても、別に良くない?生きて生活してくのに支障がないなら。
誰だって、誰だって、色んなことを抱えてる。じゃあその人がハッピーな人生を生きてるかそうじゃないかを決めるのは、その「生きづらさ」そのものの大小だけじゃなくて、どうその「生きづらさ」と付き合ってるか、どんな風にそういう、いわば闇を、抱えているか、じゃないのかなあ。

もちろん圧倒的に絶対的にそういうものが大きい人というのはいると思うし、こういうことは主観的なことなので、もちろん他者がどうこうは言えないというのは十分承知した上で、でも、「自分(の傷)探し」に必要以上に埋没してしてしまって余計に苦しくなってしまって、いわば本末転倒になってるケースというのは。。。。多く存在しているような。。。。

(って、まあ、かなり「生きづらさ」の少ない、ってか、ほぼないお前が言うな、とお叱りの声があるかもしれないのは最もだとは思うのですが。。。 f^^;;)

繰り返しになるが、それが好きならいいと思う。モグラ叩きが好きならしていたらいいと思う。
一人ででも、仲間とでも。同じ趣味を持ったり同じゲームが好きな仲間といるのは楽しいしね。

でも、好きじゃないなら、やめたらいいと思う。
モグラ叩き。

モグラ叩きをやめてその場を離れれば、いくら次から次へとモグラが出てきても関係ないし、多分、モグラ叩きのゲームそのものが終わるので、モグラは、出てこなくなるだけじゃなくて、いなくなるのではなかろうか。

。。。。なんて、ちょっと飛躍なんだけど、夫の製品開発の話を聞いてて、思ったのであった。

posted by coach_izumi at 12:23| Acknowledging Yourselfー自分を認める

2016年06月05日

まさみちゃんの「サバーイ・プロジェクト」に参加してみました(2) <わたしがもらったもの編>

サバーイ・プロジェクトについてはこちら
http://ameblo.jp/beautiful-sunshine/entry-12039775471.html

コーチングのトレーニングを最初に受けた時に「基礎コース」で一緒だったまさみちゃん。現在、いわゆる”駐妻”(駐在員の奥さん=妻のことを、こう 言う、ということを知ったのはわりと最近)としてタイ在住です。先日、「ぴん!」と来てしまって(笑)、まさみちゃんがここ1年ほどやってきた「サバー イ・プロジェクト」に参加してみました。もとい、スカイプを通じて彼女とお話をする時間をもらいました。

たっぷり時間をもらってしまったんだけど、いろんなことを話して(一部分コーチングもあったけど、それに限定されない形でお話をしました)最後の最後に、 まさみちゃんに促される感じで私が手を伸ばしたのがスケジュール帳。ちなみに私はスケジュールは手書き派で、ポストイットも駆使する派。

スケジュール帳に貼ってあった、あれやこれやの(主に仕事系の)計画とか締め切りとか目標などなどを書いたいくつかのポストイットをぜ〜〜〜んぶはがし て、くしゃくしゃにまるめて、捨てました(自分以外の人も関係する事柄で日時が決まっていることは既にちゃんと直にノートに記入してあるので、大丈夫で す。ご心配なくf^^;)。このことはこのあたりから始めた方が良い(てか始めないとマズい)、というようなことがメモして貼ってあったポストイットも、「大事なことだから、日が近づけば自ずとするでしょう」と判断して、捨てました。

すごくすっきりしました。
すんごく楽しくなりました。

で、ポストイットがなくなった白いページを見ていて、ま、まぶしい、と思ってたら、ぬぁんと、いきなり泣けてきちゃいました(!!)。

もう、私本人もびっくりしたけど、(多分)まさみちゃんも、さぞびっくりしてしたと思ったのですが、後日、びっくりしなかったよ〜、と本人から、聞きましたが^^。
な、なんだ、なんだ、こんな風に泣いちゃうなんて、ひっさしぶりだなあ、と思ったけど、まさみちゃんが言う通り、悲しくて泣けちゃったんじゃない。

ひっさびさに、軽くなった。

こんなに白いページ、見るの、何十年ぶりだろう。

しなきゃいけないのは、お祓いじゃなくて(←この少し前に、体のトラブルが続いて、冗談半分ホンキ半分でお祓いでもしようかと言っていたので。笑)、ポストイットを払いのけることだったみたいね、とまさみちゃんが若干オヤジギャグっぽく(?)言ってくれたのが嬉しくて、ほんとにそうだったな〜、って、すんごく思ったのでした。


posted by coach_izumi at 01:10| Acknowledging Yourselfー自分を認める

2014年04月15日

正方形症候群・続編風

昨日の続編、というわけでもないのですが、サッカーつながりで、ふと思うこと。

息子のサッカーの試合は小学生同士の対戦とは言え、うちの息子以外はみな幼稚園からサッカーをしている子ばかりということもあって、なかなか迫力もあるし、みなテクニックもあります。

ただ、しろうとの私から見ても(ま、しろうとだからかもしれませんが)「え、ちょっとそのシュート、もともとムリじゃなかった?」とか「いや、そこでシュートしても入らないから、あっちにパスした方が良かったんじゃないの?」というようなことが、結構あるんですよね。

で、これ(↑)は私の発想。

私がすごく興味深いなあ、と思ったのは、子供の一人が(とにかく)シュートを撃った、っていうプレイに対してはGood job! Nice Try! みたいな感じで必ず誰かがそのプレイを褒める声援を送って挙って拍手が起きるんです。

私から見ると、どんなに「いや、そこでその体制/体勢でシュート撃っても・・・^^;;(入りっこなかったんだから、改善の余地、あるんじゃない?)」と思うような場面でも、まず、シュートを撃った!というプレイに対して、まず拍手!!

日本で子供のスポーツの世界に触れたことが全くないので良くわからないのですが・・・日本だと違うのかも??という感じはするのですが、どうなんでしょう・・・

とにかく。

(シュートの)”失敗”とみなして「次により確実に点につなげるためには、じゃあ、ここをこう直して・・・」という発想がぱっと私の中には浮かんでしまうのですが、周りの拍手を聞いていると、全然そんな感じじゃない。まあ、心の中は分かりませんが、表に出る声援に限っては「はずれようがなんだろうが、とにかくシュートを撃ったこと、それがエラい!!よくやった〜〜!!」って感じ。

ひょっとしてサッカーというスポーツを私が知らないだけで、上記のような感覚・声援はサッカーの世界では常識なのかもしれませんが、とにもかくにも私がこういう体験を通して考えたのはやっぱり「自己肯定感」について。

世界各国における自己肯定感の高低を調べると、アメリカはすごく高くて日本はすごく低い、っていうの、聞いたことありますか?

もちろん高いことが必ずしも全てにおいていい、ってわけでもないと思うんですが、こちらの小学校の団体で行うパフォーマンスとかを見に行くと、日本の保育所の(親がびっくりするくらい)ものすごいレベルに仕上がっている団体パファーマンスと比べると、(あくまで私の感覚ですが)「えっっっ???^^;;」ってレベルだったりするんです(笑)。

だけど、とにかく、そのパフォーマンスが終わった後の観客(=父兄)の拍手喝采、ブラボー!の声援がとにかく(あくまで私の感覚ですが)「は???な、なぜ??^^;」ってくらいすごくて、すごくて。世紀のパフォーマンスだったぞ〜、って勢い。
(ちなみに私が困惑した顔で主人を見ると=なぜなら本当に私は”困惑”していたので=、主人曰く「ま〜、(こういうものすごい喝采も)いいんじゃないの」ということです。)

子供達がそれをどう感じてるのか、それぞれ違うでしょうし、私には本当には分かりませんが、でも、こんなに手放しで褒められたら、そりゃあ自己肯定感高くなるよね〜、って素朴に思います。

どちらが良いというのはないと思うし、一長一短だとは思うのですが、ま、アメリカ風自己肯定感養成スキル、取り入れてみるのは、いいかもね〜、などと日々感じています。

息子に対して、だけじゃなくて、自分に対しても。



posted by coach_izumi at 23:57| Acknowledging Yourselfー自分を認める