2018年04月04日

「友が皆我よりえらく見ゆる日よ」

「友が皆我よりえらく見ゆる日よ」という字句が心に浮かぶ雨の日。そういえば続きってどんなだ?と思ってググったら(便利な世の中だ)「花を買ひきて妻としたしむ」だった。

私の場合は、一人で抹茶でも点ててとっておきのお菓子と一緒にゆっくり飲もうかねえ(花より団子にこにこ顔1(うれしいカオ)あせあせ(飛び散る汗))、なんて思って、気がついたのは、あれ、これって石川啄木の歌だったのね。

亡き父は若い頃石川啄木が大好きだったんだとか。実家には父が自分の名前を英語でサインした古い文庫本があった(なんか青春ぽい)。父は彼の作品を何度も何度も読んだと言っていた。

石川啄木と言えば「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」が私はすぐ浮かぶので、ふーん、やっぱり貧乏同士(昔の父と石川啄木)ということで何か響いたということなのかなあ、なんて思ってたけど、ひょっとしてお父さんも「友が皆我よりえらく見ゆる日」があったのかなあ、きっとあったんだよねえ、なんて思う。

「友が皆我よりえらく見ゆる」気分に変わりはないが、父は一体石川啄木の歌のどんなところが好きだったんだろうか、と改めて思いを巡らせるのは、悪くない。「一握の砂」ポチってみようかな(暗い?顔1(うれしいカオ)あせあせ(飛び散る汗))。

追記:もっとググってみたら、石川啄木は「貧乏なのに遊び歩いていた」らしい。共鳴点は、こ、ここだったか??困り


posted by coach_izumi at 04:19| Words of the Dayー今日の言葉

2016年07月25日

“The difference between a really good day and a really awful day is not in what happened but in what you tell yourself about that day.” 「本当に良い日と本当に悪い日の違いはその日に何が起こったかではなく、その日についてあなたが自分自身に何を話すかだ」

“The difference between a really good day and a really awful day is not in what happened but in what you tell yourself about that day.”
--Stewart, John. Bridges Not Walls, 11th ed. (New York: McGraw-Hill, 2011), p. 260.

「本当に良い日と本当に悪い日の違いはその日に何が起こったかではなく、その日についてあなたが自分自身に何を話すかだ」


今年の1月からマンハッタンにある大学のコミュニケーション学部で非常勤講師として「異文化間コミュニケーション」という科目を教えていました。この9月からも引き続き同じ学校の同じ学部で授業とひとつ担当することになっているのですが、今度教えるのは「コミュニケーションの基礎(理論)」という科目。科目が違うので当然前回とは違う教科書を使うので(だからまた最初から準備しないといけなくて、ちょっと大変f^^;)、この夏を利用してぼちぼちと読んでいるのですが、今日の言葉はその教科書の中に引用されていたもの。「言語メッセージ」という章の、言語が思考を左右するという「サピア・ウォーフ仮説」という古典的理論についての説明の中で引用されていたのです。まるで「コーチングの教科書ですか?」と思ってしまうような(どこかで聞いたことがあるような?)一節に、なんだかおかしいやら、うなるやら。でも、「だよね〜、そうよね〜」とお仕事そっちのけで、個人的に感じ入ってしまうと同時に、これまで色々やってきたことって、やっぱりどこかでつながっているんだなあ、と納得してしまっています。


自分自身にうそをついたりつくろったり必要も、無理矢理ポジティブになる必要も、もちろん全くないと思う。悪い日のことを良い日だったと自分に言わなくてもいいと思う。でも、「本当に良い日と本当に悪い日の違い」は「その日に何が起こったか」じゃなくて、「その日についてあなたが自分自身に何を話すかだ」という言葉は、ちょっと手垢ついているような気もするにも関わらず(笑)、思いがけない機会に目にしたせいか、なんだか圧倒的な説得力をもって私の腹に落ちたのでした。

あなたが、今日という日について、「あなた自身に話す」ことは何ですか?



posted by coach_izumi at 10:19| Words of the Dayー今日の言葉

2015年09月19日

「人生っていうのは自分が何になりたいかじゃない。だれに必要とされているかなんだ 。」--by 欽チャン

あれは昨年度も終わりに近づいたころ。教鞭をとっていたサラ・ローレンス・カレッジにてまさかのそしていきなりの全学予算削減による(私の)ポスト削減という憂き目に遭い「まじすか?」と思ってたら絶妙のタイミングで「家から通える別の大学@NYC」にポストの空きが。ムリ目だったけどごり押しで応募してみたら思いがけず面接の運びへ。これはイケルに違いないと思ったら最後で落とされ、「(ここまで来て)うそでしょ?」と不遜にも思ったりして。これはもう大学で教えるのはお休みだなあ、と思って秋からの計画をあれこれとたてていたら、忘れたころに、このポジションの話が向うからまさに「降って」きて、「な、なんなの?」ととまどった。

春夏はそんなこんなでちょっと落ちつかなかった、というか、そのまさかのいきなりの憂き目から休む間もなく立ち上ってトライしたムリ目の応募にかなり時間と労力とエネルギーを使って、へとへとになった(こんなことなら最初から落としてくれよとも思ったが、まあ、それならそれでまた落ち込んだだろうけど)。

だからこの仕事を受けるのに、ちょっと迷った。ショージキもう、新しい組織で新しいこと(教科書も違うからまた最初から全部準備しないといけないし、とか)をやるのは、面倒くさく思えた。ちょうど大学の仕事以外のこともごたごたしたことが続いて、なんかおシゴトが「いやんなって」「めんどくさ」って思えて「考えてみればもう50だし(←50才以上の方に対して大変失礼な言い方f^^;;てか、まだ48だっちゅうの)、あたし、もう引退しようと思う」(←何からだよ?笑)と年上の女友達にほざいたら、「何言ってんの?全然意味分かんないんだけど??」と一蹴されたのもありがたかったけど、実は、やっぱりこの仕事をやろうと決めたのは、なんとなんと萩本欽一氏(欽チャンかよ!)の言葉にちょうど遭遇したからだったりする。それは

「人生っていうのは自分が何になりたいかじゃない。だれに必要とされているかなんだ 。」

ちなみに、いつも『何か』になりたくてがんばってきた私てきには、こういう言葉が私のココロの琴線に触れるのは新しい(笑)。
やっぱり年かも、と思う(笑、笑)。

必要とされているなら、その流れに逆らわずにやってみようか、なんかもう面倒くさいけどがんばってみようか、と、欽チャン(欽チャンかよ!)の言葉に遭遇して、思ってしまった。(そもそも大変ありがたいことだし)。

ということでこの9月から、SUNY Westchester Community Collegeというところで日本語を教えている。楽しくやってるんだけど、2時間半ぶっ続けで語学のエントリークラスの28人(多いよ!)をリードするのは、体力的に(いや、ほんと、「体力的に」笑)ツライ。授業中はともかく、終わるとぐったりして帰りの運転がまじ危ない。そしていつも声がかれてしまう。そのせいかコーチングの時に「一人」を相手に普通の声で話すという行為に体が癒される感覚すら覚えてしまう。

いや、てか、そんなに動き回らんでも、でっかい声でやらんでも、いいのかしらん。

posted by coach_izumi at 03:39| Words of the Dayー今日の言葉