2022年10月06日

プリンの思い出

高校3年生の時に受験した大学に全部落ちて、私は「浪人生」になった。そして高校を卒業してから父の仕事の事情で引っ越した牛久から高田馬場にある予備校まで毎日通うことになった。

浪人生にも予備校ライフにもいろいろなパターンがあると思うが、私はかなり「詰んでた」タイプだったと思う。所属する場所のないことと将来に対する不安感に加えて、いわゆる「イイ大学」に合格しなければならないという思い込みからくるプレッシャーに苛まれて、勉強は全く捗らなかった。もちろん点数は思うように伸びず、焦りと自己効力感の低下は加速し、だからますます勉強は捗らず、不安感と(自分で自分にかけてた)プレッシャーもますます大きくなっていった。高校卒業直後に引っ越して周りに友達が全然いない環境になったのもそういう「詰んだ」状態に拍車をかけ、夜もちゃんと眠れず生活時間が乱れ、私は自分で自分をものすごく追い詰めてしまうようになっていた。

そんなに自分を追い詰めなくても大丈夫だよ、なんとかなるよ。イイ大学に行くだけが人生じゃないよ。そんな当然のこと、詰んでる孤独な18歳には、分かんないよ。詳細は割愛するがちょっと異常な行動をするようになった私を見るに見かねて、普段は何も言わなかった母が「そんなに苦しむ様子をもう見ていられない。そんなに辛いなら大学受験なんてやめたらいい、もうやめなさい」と、泣きながら一度だけ私に言った。

そんなふうに全く勉強が捗らないまま年が明けて、再受験の年になった。私立の受験は2月から始まるから、もう、まじで時間がない、どうしようもない、と悟った時に、私は思ったのだ。もういいや。十分だ。もう十分だと言い切るほど勉強したわけでは全くなかった。でも、自分はもう十分苦しんだよな、と思ったことを覚えている。だから、もういいや、苦しい思いをするのはもういいや、と思ったのだ。

今思い返せば、いよいよ「終わり」が見えてきたから、ちょっとほっとしたんだと思う。今から大逆転できるわけじゃなし、という諦めの気持ちを持てるようにもなったんだと思う。もういい。もうなんでもいい。”大学生”になれたら、もう、なんでもいい。なんだってどこだっていい。私は”大学生”になりたい。そしてこんな生活もこんな自分も終わりにしたい。と思った。だから、その時の私の受験力であれば、逆立ちしても合格するよね、という、大学に受験の申請もした。以前の私であれば全く視野に入れなかったし周りの友達も誰一人として受験したりしないよね、という大学だったけど、私は、もう、いいんだ、全部落ちたら、ここに行くんだ、そしてそこで大学生になるんだ、と「決めた」。

そこから私は生活を朝方にして規則正しい生活をするようになって、朝早くから通勤する大人たちと一緒に駅のホームに並んで激混みの電車に一時間乗って予備校に行って授業に出て、午後早い時間に帰ってくるようにして、その後に勉強して、夜は早く寝るようにした。勉強の量は多くはなかったけど、日々穏やかで集中していた。1月と2月の途中までずっとそういう生活をしたのだけど、1月の初めの頃のある寒い日に家に帰ると母が焼きプリンを作ってくれていた。濃厚で甘いプリンは、寒さと通学で疲れた体にとても美味しくて、私はものすごく美味しがって食べた。

すると、何を思ったか、母は、それから毎日予備校から帰ってくる私のために焼きプリンを用意してくれるようになった。何個かまとめて作ってもすぐに食べてしまうので、翌日や翌々日にまた作っておいておく。そんな風に、文字通り「毎日」母は私のためにプリンを用意してくれた。私は毎日、予備校から帰宅すると母のプリンを食べてから家で勉強した。

現役の時も、浪人の時も、母は私に何も言わなかった。それ以外の時だって、いつだって、私の人生について、母があれをしろこれをするなと口を出したことは一切なかった。自分が親になって、つくづくと、母は凄かったと思う。親としてのあの忍耐強さと胆力、私は全く及ばない。そして我が子に対して自立した孤高の人であったのに、限りない愛情を注いでくれたこと。全然真似できない。

高校生活のハイライトを迎えて、私の想像が及ばない葛藤を経験しながらかつての私の何倍も頑張っている息子を見ている毎日。心配ゆえにあれこれ口を出したくなるし出すんだけど、結局あまり役になってない、どころかお邪魔です(苦笑)。いやー、私と真逆のお母さんって、凄かったよねー、と思い出して、で、だからせめて、じゃあプリン作るところだけでも真似しようかな、と思った次第。なんだけど、自分が一番先に食べて「やーん、美味しい〜」と自分が一番喜んでる母であった。
posted by coach_izumi at 02:03| Slices of My Lifeー徒然ノート

2022年09月25日

秋のお彼岸におはぎを作る

秋のお彼岸のおはぎを作った。おはぎは家で作って食べるのがなんてったって美味しい。

季節問わずよくおはぎを作ってくれた母がおよそ1年半の闘病の後に割とあっけなく亡くなってしまったのは15年前の秋のお彼岸の頃。だから秋のお彼岸のおはぎは作らないとねって思う。でも、これ、口実かな。カーボ(=炭水化物)とシュガーの組み合わせという恐ろしい食べ物を堂々と食べられる?お彼岸って素敵。

母が亡くなった時もその後も、世界の色が変わるくらい悲しかったけど、でも、亡くなった時、ほっとした。これでようやく苦しみから解放されたんだな、と思った。亡くなる前の数日間、父の実家のお仏壇に手を合わせて「おじいちゃん、おばあちゃん、お母さんが可哀想だから、早くお母さんを連れて行ってあげてください」と毎日お願いしたのは、遠い思い出。のはずなのに、感情だけは蘇る秋のお彼岸の頃。母がこの世にいたことが、今はもうまるで幻だったようにしか思えないのに。

Fall equinox gives me such a good excuse to make and eat "carb + sugar" treatsからかう(あっかんべえ) Homemade ohagi, sticky rice balls covered with sweet red bean paste and sweet sesame paste: Japanese traditional sweets for the offering to the souls of those who are not here with us anymore.
My mom, who used to make ohagi a lot for us anytime, passed away during the fall equinox week 15 years ago; I gotta make ohagi at this time of the year.
posted by coach_izumi at 05:01| Slices of My Lifeー徒然ノート

2019年12月29日

父が死んだ時のこと

父の正確な命日は分からない。
父は自宅で一人で死んだからだ。

近所に住む父のいとこの一人が毎週土曜日に父の様子を見に父を訪ねてくれていた。そして年末が迫った土曜日にいつものように父を訪ねてくれた。その翌日の日曜日に「なんだか嫌な予感がした」からと家に行ってくれて、父が居間の床に寝た状態で亡くなっているのを見つけてくれた。

明後日には家族で北海道に帰省しようとゆっくり過ごしていた年末の日曜日の午後、その父のいとこから私の携帯に電話があって知らせを受けて、すぐに飛行機のチケットを取って千歳に飛んだ。最初は無理かなと思ったが、奇跡的に、夜中近くにはなったが当日中に父が一人で住んでいた実家に到着することができた。

第一報を受けた時の正直な気持ちは、ホッとした、だったと思う。癌を患っていたが、頑として病院にも行かず在宅ケアも受けず熊本に住んでいた私のところに来るなんて論外、だった父はアルコールに依存するようになっていた不良病人だった。父自身については、心配は心配だったがもう本人がしたいようにしてくれればいいとは思っていた。だが、他の人を巻き込んだトラルブを起こさないかとそちらの方が心配で、気が気でなかった。だから、一人でただ死んだ、ということにホッとした。ああ、終わったんだな、と思って、体の力が抜けたような感覚を覚えた。

実家に到着すると、父と兄弟のように育った、電話をくれた父のいとことその兄弟たちが父のそばにいてくれた。私はなんとなく、病院で亡くなった母を家に連れて帰ってきたすぐ後の時のように、父が病院のパジャマを着て普通の布団に寝ているんだろうと思っていた(病院にはいなかったのに)。でも、父がいる部屋に行って私が見た光景は全く違った。

父のいとこたちが全てを手配してくれて、父は葬儀屋さんが準備してくれた綺麗な掛け布団をかけられていて、その上にはやっぱり綺麗な袈裟のような布がかかっていた。その上にはご丁寧に懐剣まで置いてあった(入れ物だけで、本当の剣は入ってないが)。父の横にはお線香が立てられていて、父の顔には白い四角い布がかかっていた。

なにこれ。まるで死んだ人みたいじゃん。と私は思った(死んでいるんだが)。
なに、お父さん、なに、死んだ人みたいになっちゃってんの?(だから死んでいるのである)と頭の中で叫んだ。

そのまるで葬儀屋のパンフレットみたいに綺麗に整えられたすっかり出来上がった光景に、私は衝撃を受けた。お父さんが死んじゃった、と思った(だから死んでるんだって)。そして私は、まるで下手な芝居のように、その場で膝から崩れ落ちて、堰を切ったように、父の横で号泣し始めた。なんで、なんで、と、実際に絞り出すように言葉にしていたような気がするが、頭の中だけで言っていたような気もするし、定かではない。いずれにせよ、なんで、なんで、と私は何度も言った。なんで勝手に一人で死んじゃってるわけ。なんであと二日待てないわけ。なんで、なんで。

そして、ばっかじゃないの、と思った。実際に口に出して言ったかもしれない。ばっかじゃないの、最期まで意地はって。ばっかじゃないの、私に会いたかったでしょうに。ばっかじゃないの、こんな死に方して。ばっかじゃないの、なんでもうっちょとだけ待てないかな。ばっかじゃないの。(死んだばかりでいきなりたった一人の実の娘に罵倒される父も気の毒なことであった。)

嗚咽が止まらなかった。私は慟哭し続けた。朝まで大声で泣き続けられるような気がした。

全く泣き止まない私を見かねてか(そばにいた父のいとこ達も困っていただろうし)、夫が、「お父さんに会ってあげないと」と、父の顔の上の白い布を取るように私に促した。ほっておいて、私はただこのまま泣いていたいんだ、死んだお父さんの顔なんて見たくないよ、見たらほんとに死んだことになっちゃうじゃない(だから死んでるし)、とちらりと思ったような気がするが、さすがに言われるままに布を取った。現れた父の顔は痩せてて強張ってて、私は、なにこれ、と思った。こんなのお父さんじゃないよ、と。だから私はまたすぐに白い布を父の顔にかけた。

父のいとこたちたちが帰って、まだ小さかった息子を寝かせたあと、夫がお父さんと飲もうか、と言ってくれた。

肝臓癌を患っていた父にアルコールは厳禁だったが、母が死んで3年の間にすっかりアルコールに依存するようになっていた。いくら止めてもやめるわけもなかったので、だったらもう最後のお正月かもしれないんだしどうせ飲むなら美味しいお酒を持って行ってあげようかと考えて、結構いいお酒を買って準備していた。急な帰省とはなったが、私はそれを忘れずに持ってきていた。ティッシュにお酒を湿らせて父の唇を湿らせてお酒をあげて、そのあと夫と二人で小さなグラスで乾杯して父と一緒にお酒を飲んだ。夫と何を話したか覚えてないが、その時間で少し慰められたような気がした。

母の時には行った納棺の儀は、父の時にはしなかった(実家のある地域ではするのが一般的だった)。なんだかする気になれなかった。通夜を済ませ葬儀を済ませ、年が明けて、父と一緒に食べようと注文しておいたおせち料理を夫と息子と実家で食べた。そのあとすぐに夫と息子には夫の実家に行ってもらって、私は初七日までとそのあと数日を一人で実家で過ごした。

年末年始に当たったので諸々の手続きのために関係各所に行くこともできなかったので、昼間は実家の片付けをして過ごした。家は処分しなければならなかったから、写真を含めたたくさんのものを整理して処分した。夜は年末年始のくだらないテレビをぼーっと見て過ごした。お正月休みが終わったあとは市役所に行ったり銀行に行ったりする道を歩きながら北海道の冬は寒いなーとつくづく思った。晴れた日もあったはずだが、その時のことを振り返ると、どんよりとした空しか思い出せない。

熊本に帰らないといけない日が迫ってきて、さあ父のお骨をどうしようかと思った。四十九日の納骨の日までは、家の祭壇にお骨を置いておくのが私の実家の地域での習慣だった。抱えて帰ってまた四十九日の時に持ってこようかなー、と考えていたが、父を見つけてくれた件のいとこが「まさか飛行機に持って乗るわけにも行かないだろから、置いていけ。かわいそうだけど。ちゃんとお線香をあげに来るから」と言ってくれた。誰もいない家にお骨を一ヶ月以上も置いておくって、ありえない、と感じる人は世間には多いのではないかと思うが、船山家とその親戚は、こういう、合理的なところがあった。そのいとこがそう言ってくれるならと、私はそうすることにした。そう、骨壷に、父がいるわけではないのだから。

熊本に帰って、福岡に単身赴任していた夫も福岡に行って、普段の生活を再開させる日がきた。年明けの初出勤だ。基本的にワンオペ育児をしていた私は就学前の息子を寝かしつける時に一緒に寝て、朝の3時とか4時に起きて、家で仕事をして、息子を通常よりも早い時間に保育園に預けて職場に行くという生活をしていた。その日も同じようにして、朝7時半頃に勤務先の大学に到着した。

北海道ほどではないにしても、1月の寒い朝だった。少しもやがかかっていたような記憶がある。いつもの駐車場に車を停めて車から降りた私はなんとなく暗い気持ちでいた。重く感じる体を引きずって自分の研究室があった建物に向かおうとしたその時、私がいた場所から10mほど離れた別の建物の外から中に続く階段の手すりのような所で一匹の猫が座っていて、こちらを見ていることに気がついた。

その猫は、ちょっと体がデブっとしていて、体に縞のようは斑点のような模様が合って、ちょっと薄汚れてふてぶてしい感じで、私は、なんかちょっとお父さんみたいだな、と思った(父の名誉のために言うと、別に父が薄汚れた感じの人間だった訳ではないのだが)。

猫は、私が駐車場に来る前からそこにいてずっと私を見ていたんだろうと思わせるほどに、微動だにせず、そこにいて、私をじっと見ていた。見ているように感じた。私も猫を見返した。私たちは、しばし見つめ合っていた、と思う。

「お父さん?」

お父さんだったりして。お父さんならいいのにな。そう思ってそんな風に声をかけてしまったのは、猫という動物が私にとってはちょっと不思議な存在だったからだと思う。するとその猫が、ぎゃおおおおおん、ぎゃおおおおん、と、さきほどからの姿勢を全く変えることなく、威嚇するかのように、怒っているかのよう数度鳴いて、その鳴き声はまだ誰もいないもやのかかったキャンパスに響き渡った。

私はまるで 父に、もしくは猫に、「しっかりしろ」と言われているような気がした。その鳴き声の激しさに驚いたものの、私は思わず「お父さん、私、大丈夫だから。頑張るよ。頑張るから」とその猫に向かって叫んだ。

そのあと猫に背を向けて研究室がある建物に私は向かったが、その私を猫はじっと見送っていたように感じた。

それから数度、同じ時間帯に同じ駐車場に車を停めた冬の朝に、同じ猫と会った。猫は毎回同じ場所にいて同じように私を見ていたが、熊本に早い春が来る頃にはいつの間にいなくなって、その後その猫を見かけることは2度となかった。







posted by coach_izumi at 14:45| Slices of My Lifeー徒然ノート