最近ゆっくりだと5Kがきつくなくなってきた!ので、今日はちょっと距離を伸ばしてみようと思って、いつもは行かない道まで走ってみた。と、基本的に車しか通らない道の真ん中に携帯が落ちいてる。思わず拾うと、ちょっと離れたやっぱり道の真ん中に携帯ケースが。あまりに場違いで、どこからともなく目の前に現れたようにしか思えなかった。やはり思わず拾って、手に抱えて家に戻る道を走りながら、うーん、面倒なことになっちゃったなー、どうしようかなー、なんて思った。
昭和の日本人としてはもちろん警察に届けるのが順当ですよね、は思ったけど、なんかのトラブルに巻き込まれたらいやだなーと思ったのと(ほら、アメリカだからねー)、あと、ちょっと面倒だなーって。だって、家からドライブしてかないといけないんだもん、ポリスステーションまで。でもでも、困ってるかもしれないよなーとか色々走りながら考えて、結局、家に帰ってすぐにシャワーを浴びてすぐにポリスステーションまで運転して届けたその即決速攻行動の決め手になったのは、小さい頃住んでいた町の交番のおまわりさんが、くだらないものを拾っては届ける私たち子供に(10円玉とか。笑)いつも優しくしてくれたかもしれない、と思ったりして。
ポリスステーションにイブだっていうのに勤務してた若いポリスマンに落し物を渡して、言われるままに一応私の免許を見せて家に帰ったら、わりとすぐにその若いポリスマンから電話があって、私た立ち去るとすぐに落とし主のジェントルマンが現れたという。それで、その人が私に電話してお礼お言いたいから私の番号を渡してもいいですかと聞かれた。ちょっと迷ったが、まあ大丈夫だろうと思っていいですよ、と伝えて電話を切ったが、本当にお礼の電話が来るとはあんまり思えなかった。だって拾い主、わけわかんない名前の外国人ぽいし??笑 するっと電話なんかしないんじゃないかなーと思った。
でも、夕飯をほぼ終えた頃、電話がかかってきて、結構お年を目した感じの(70代?80代?)の丁寧なまさしくジェントルマンが、名を名乗って、本当にありがとうと言ってくれた。誰もがこういうことをするわけではないとも言ってくれた。そう言われてもちろん嬉しかったが、それ、うん、分かるよ、と思った(苦笑)。だって、トラブルに巻き込まれる可能性もあるし、面倒だしさー、そんな酔狂なこと、このアメリカで昨今わざわざしないよね、普通。私だってたまたまそうしただけのような気がするし(とは言わなかったけど)。笑。でも、落とした人は困ってるんじゃないかと思ったから、と伝えて、届けたはいいけど本当に落とし主が現れるかどうか心配だったから良かったです、と伝えると、そのジェントルマンは、英語ならではの表現で素敵なことを言ってくれた。You really made my Christmas. ちょっと感動した。Mr なにがしさん、You made my Christmas, too. あの落とし物は、神様(?)から私への、クリスマスプレゼントだったのかな?笑
2019年12月25日
"You made my Christmas" ークリスマス・イブの出来事
posted by coach_izumi at 11:27| Slices of My Lifeー徒然ノート
2019年12月18日
町長さんに陳情に行く、の巻
小学生の頃に私が住んでいたのは競走馬の産地として有名な北海道の田舎町。私の家の近くには寂れた公園があったが、遊具はほとんどなくてあっても壊れていた。遊具など使わなくても遊び場所はいっぱいあったが(近くの川でザリガニとるとか、海辺で昆布を拾うとか、その辺の牧場の馬に隣の畑からこっそり拝借した人参を食べさせてみるとか)、昭和の高度成長期の子供はやっぱり「遊具」で遊びたかった。ちゃんとした遊具がある公園までは子供の足で歩くと15―20分くらい、自転車でも10分くらいかかったような記憶がある。よくその公園には行っていたが、ちょっと遠くて不便だなーうちの近くの公園がもうちょっとちゃんとしてたら便利なのに、とそれはもう保育所に通っていたくらいの頃から常々思っていた。
小学校3年生の時だったと記憶しているが、学校で社会の時間に町の行政の仕組みについて習った。学校とか公民館とか公園(!!)とかそういう公共の建物は、役場の人が話し合って、町長さんが決めて、作るんですよー、てなことが書いてあった。
私は真面目で素直な小学生だったので、教科書に書いてあることは正しいことだと思って読んでいた。だから、私は社会の時間を通して学んだのである。あ、そうなの?公園って、役場の人が作るの?町長さんが決めるの?だから思ったのだ。だったら、町長さんに頼めばいいんじゃないの?と。本当に素直に思ったのだ。
母が夕飯の買い物か何かで家を留守にしたある午後、私は突然に決心した。町長さんに公園を作ってってお願いに行こう!と。それはまるで秘密のミッションのように感じられた。使命感に掻き立てられ、決心したら即行動。私は自転車に飛び乗り、キコキコと自転車を10分くらい漕いで役場に向かった。自転車を漕いでいる時も、そして役場に到着してからはなおのこと、ドキドキして、でも「これで公園が作ってもらえるー(←本気)」とわくわくして(めでたい)、緊張して高揚した気分だった。
役場にはそれまでにも何度か母と来たことがあった。でも、一般の人を受け付けるいくつかの窓口を目の前にして、私は迷った。どこの窓口で公園を作ってくださいってお願いしたらいいんだろう?小学3年生の女の子が一人で役場にいるのは似つかわしくない。目を泳がせて困ってる様子の私に、何かの窓口に座っていたお姉さんがカウンターの向こうから、どうしたの?と優しく声をかけてくれた。
あーよかったーと思った私は、でもやっぱりまだ緊張して高揚した気持ちのまま、お姉さんに、自分の家の近くの公園は遊ぶものが全然なくて遊べないこと、いつも行く公園はちょっと遠くて不便なこと、だからうちの近くの公園があったところに新しい公園を作って欲しいこと、それを町長さんにお願いしたいこと、を一生懸命伝えた。
その優しいお姉さんは、今思えば、ちょっと目を丸くしてたんだと思う。ちょっとだけクスクス、って感じで笑って(そして私はなぜこんな真剣な真っ当な訴えに対して笑っているのか謎だった)、ちょっと待ってね、と言い残して奥に引っ込んだ。そして少ししてまた出てきてから、出口を出て隣の玄関の方に来るように言ったのだ。その玄関とは、一般の人が使う玄関じゃなくて、いわゆる関係者の人が使う、なんか偉そうな玄関だ。一人残されてる間も緊張と高揚が続いていた私は、あー!町長さんに直接お願いすることができるんだー、と思って、ホッとして且つコーフンした。
件の玄関に行って待ってるとすぐに優しいそうな上品なおじさんが出て来て、やっぱり優しく私に言った。町長さんは今日は忙しくてこれないんだけど、おじさんが代わりに聞いて町長さんに伝えてあげるよ。どうしたの?と。私は、えーこの人、町長さんじゃないのか、と結構がっかりしたが、でも、ちゃんと伝言してもらわないと、と思って、先ほどお姉さんに熱弁を振るった内容をそのおじさんに再び一生懸命伝えた。
私の顔を見てうなずきながら聞いてくれたおじさんは私が話し終わった後、分かったよ、おじさんがちゃんと町長さんに伝えておくからね、とやっぱり優しく言ってくれた。そして最後に私の名前を尋ねたので、優等生だった私は元気に答えた。「船山和泉です!!」と。ここから若干記憶が曖昧なのだが、お父さんは何をしてるの?というようなことも聞かれたのかもしれない。もちろん私はやっぱり元気に父が当時勤めていた町内に営業所のある会社の名前を伝えたように、うっすらと記憶している。
ミッション、コンプリート。達成感に包まれて私は再び自転車をキコキコ漕いで家に帰った。そして、このことをすっかり忘れた。己のミッションはコンプリートしたのだ。あとは知らん。私はその実かなり緊張していたのだと思う。だけど公園のことをお願いしなくてはという根拠ない使命感がその緊張を凌駕していたというわけだ。が、緊張感からの開放感があまりに大きかったせいか、私は、家に帰ったあと、すっかり完璧にこのことを忘れた。
そして、2〜3日後だったと思う。外出から帰宅した母が家に入るなり慌てたように私に尋ねた「ねー、ねー、あんた、役場に行って、町長さんに公園作ってくださいってお願いしたの!?!?」と。ちょっと叫んでたかも。
その母の「ただならぬ」(苦笑)様子を感じてかどうかよく覚えてないが、すっかりそのことを忘れていた私は記憶(??)を呼び起こされると共に、「え、なんでバレちゃったの!?!?」と内心焦った。あれは秘密のミッションだったのに。秘密裏に一人ひそかにコンプリートしたはずだったのに(しかしなんで秘密だと思ってたんだろう?)だが、私はそんな内心の焦りを母に露呈すまいと、さもなんでもないことのように「う、う〜ん、行ったよ〜・・・(行ったけど、それが何か?)」とちょっとごまかして返答した。でもそのごまかしたような返答でも事実確認には十分だったようで、母は、「・・・え!・・・・え〜〜〜・・・・・!!!!〜〜〜」と、驚き、そして絶句した。今思うと、言葉を飲み込んだのだと思う。母がそのあと何も言わなかったので、なんとか大丈夫だったらしい(何が?)と思って、これ幸いにと、そのことについて私はその後一切触れなかった。母も何も言わなかった。
その翌日か翌々日か覚えてないけど、クラスメイトの男の子に「お前役場に行って公園作ってくださいってお願いしたんだって?バカでないか(北海道弁のアクセントで)」と言われた。その物言いにちょっと傷ついたが、当時の私はどうしてバカでないか、と言われるのか、心底分からなかったので(今はなんとなく分かるが)、スルーした。それから、母親が夕飯の買い物なんかに町に出かけるときに一緒に行ったりすると、会う人会う人が(小さい田舎町なので夕飯の買い物時には毎回のように知り合いに会う)「あ、和泉ちゃん!役場に公園作ってってお願いに行ったんだって〜!?すごいね〜」と私に言ったり、私自身が知らない人で母だけが知り合いの人であっても、母と一緒にいる私を見て「あら、あなたが和泉ちゃん!?あの役場に公園作ってってお願いに行った和泉ちゃん!?あら〜、この子なのね〜〜!?」などと言ったりした。そいういう風に言うおばさんたちが皆どこか面白がっている様子というかちょっとだけ小馬鹿にしている様子というか、「それ、ウケる〜」って感じだったのを子供の私は感じ取っていたが、それでも、どうしてそれが面白いのかウケるの、当時の私はやっぱり分からなかったので、ぼんやりとした違和感を感じながらも心の中でそういう反応をスルーした。そういうやりとりのたびに母は「そうなのよ〜・・・いや〜 もう〜・・・」などと、英語で言うところのembarrassment(=恥ずかしいと思う、当惑する)を体現してはいたが、はっきりとネガティブなことは言わないまま、なんとなく返している様子だった。私はやはりそれがなぜembarrassing(=恥ずかしと思う、困惑する)なことなのかピンとこなかったので、やはりスルーした。そういうやりとりについて私と母で話すこともなかった。
そんな人たちの中で、近所に住んでいて毎日のように遊んでいた仲良しのお姉ちゃんのお母さんだけが(その人にもこのニュース??は届いていたのであった)、私にそのことについてはっきりと「そういう和泉ちゃんは、すごい、えらい。おばさんそういう和泉ちゃんが好き」と言ってくれた。このおばさんは常日頃から「和泉ちゃんはハキハキしててはっきりしてて、いいね。おばさん、そういうの、好きだわ〜」としばしば言ってくれていた人だった。私の陳情行動(?)について褒めてくれたのは嬉しく思ったが、だが、なぜ褒められるのかが、なぜ笑われるのかと同じくらいに、分からなかった私は、やはりぼんやりとした反応をしていたと思う。
私は教科書に書いてあったからその通りにしただけなのに、どうして人々がそういう風に反応するのか、当時の私は、本当に分からなくて、困惑していた。
あとで分かったことは、私の訴えを町長さんの代わりに聞いてくれたあの優しいおじさんは、助役さんで、私のクラスメイトのお父さんだった。そしてその奥様、つまりクラスメイトのお母さんは、PTAの会長なんかをいつも務めるような人で、とてもおしゃべりな人(笑)だった。その助役夫妻は、いわば町の名士だったわけだ。
私の陳情行動は、SNSも何もなかった時代に、あっという間に、それこそ町中に広がっていたのであった。学校の先生にも「役場行ったんだって!?」と聞かれたし、そのあと、5年経っても、10年経っても、20年経っても、久しぶりにあった昔の知り合いとか、あとその話を直接母から聞いた親戚などにそのことを言われた(苦笑)。「和泉ちゃんと言えば、役場に公園作ってってお願いに行ったのよね〜」と、それはもうまるで正月の酒のつまみのスルメを何度も噛むがごとく、何度もあちこちで言われた。ちなみに、驚きと恥ずかしさ(←多分そういうことだったのだろう)から回復した母が、その事件(?)のすぐあとのお正月の時だったか、親戚が集まってる時にその話を親戚たちに面白おかしくしている時に「も〜 びっくりよ〜、それがまた、クラスメイトのお父さんだったのよ〜 その奥さんがおしゃべりでね〜」てな調子で話してて親戚も皆ばかうけしてる様子を見て、私は別に傷ついたりはしなかったが、これって、そういうタイプのネタなのかな〜??とぼんやりと思った。だがやはり、どうしてそんなにそれが面白ことなのか、まだ分からなかった。そのあと何年もしてからそのネタを話題として出される時もやはりイマイチ分からなかった。ドキドキもワクワクもしたが、自分は教科書に書いてあったからその通りに試してみただけだったし、ミッションをコンプリートした段階で、私にとってそのことは「もう済んだこと」であったから。
子供だった自分の突拍子のなさと、この顛末のおかしさみたいなものがなんとなく分かるようになったのは、多分高校生か大学生の頃だと思う。だが、やはり「なんとなく」だったと思う。そして母が感じたであろう驚きとある種の恥ずかしさが分かったのは、それこそ自分が親となってからだ(幼い頃の息子もそういうところがあったからであった)。
母が偉かったと思うのは、その母が感じた恥ずかしさみたいなものが私になんとなくは伝わってはいたものの、私がとった行動に関してネガティブなことをおそらくはあえて(そして一生懸命に。苦笑)言葉にして言わないようにしたのだろうと思われることだ。町で会う人とのやりとりの中でも、モゴモゴとはしていたものの、「本当に恥ずかしいわー」とか「困っちゃうわー」とかそういう言葉は発せず、ただ「ね〜 そうなのよ〜・・・ いやー 本当に〜 もごもご」にとどめていた。私が大人になってからたまに「あんたは本当に突然突飛なことするから・・・」と苦笑まじりに言っていたが、この時のことも頭にあったんだろういうのは想像に難くない。
ちなみに父は、母が死んだあと(つまりかなり後になって)の私との会話の中でふと「お前、役場に公園作ってくださいって言いに行ったことあったべ?」とこの話題を初めて(!)私に対して出したことがあった。「あの時、お父さん飲み屋で(!!)そこにいた人たちみんなに揶揄われてな〜〜恥ずかしかったな〜」と言うので、私が軽い気持ちで「嫌だったった?」と聞くと「そりゃあ、嫌だったさあ!!」と逆ギレ(??)されたことがあった。母が死んだあとで色々辛くてこのネタで娘に恨み節をぶつけて八つ当たりしたかったのかもしれないが(苦笑)、逆にそんなに嫌だったのに、当時の私には何にも言わなかったこと、父も偉かったと思う。
役場で私の相手をしてくれたお姉さんも、町長さんの代わりに私の話を聞いてくれたクラスメイトのお父さんの助役さんも、町で会った時にウケてたおばさん達も、近所のおばさんも、みんな温かかったと思う。母も父も、自分たちのメンツとか恥ずかしいと思う気持ちよりも、おそらくは我が子の資質を尊重しようして、あえて(多分、あえて)私に何も言わないでいてくれたこと、今振り返れば、とてもありがたかったと思う。
あの頃のような純粋さとか真面目さとか率直さとか、それに伴う行動力は今の私にはない(てか、われながら本当にバカでめでたかったいうか、ちょっとどっか外れてたと思うが)。まあ、あのまんまだったら周りも本人も結構困るだろうと思うが(苦笑)。でも、今でもたまに自分に起こる「思いついたら即行動パターン」を自覚する時(例えばいきなり走り出して5Kレース出るとか。笑)、これは私にトラブルをもたらすこともあるけど(あるある、ある〜)私の人生を面白くもしている私の一つの資質だなあ、と思ったりする。そしてそういう資質は、いつだって損なわれたかもしれない、と思う。例えば、そう、私が町長さんに公園作ってくださいと陳情に行った時やその後の人々の反応によって。特に両親や身近な人たちの反応によって。こういう資質が良い、ということではなくて、持って生まれたそういう資質が損なわれることなく歪曲されることもなく(まあ大人になるに従って、もちろん調整した/されたわけだが)、子供時代を過ごせたことをありがたく思う。そして小さな片鱗だけどそれが今の自分にもちょっとだけ残っているんじゃないかなーと思える瞬間があるのは、実はちょっと楽しい(家族とか身近な人は困ることもあるような気がするが。苦笑)。
小学校3年生の時だったと記憶しているが、学校で社会の時間に町の行政の仕組みについて習った。学校とか公民館とか公園(!!)とかそういう公共の建物は、役場の人が話し合って、町長さんが決めて、作るんですよー、てなことが書いてあった。
私は真面目で素直な小学生だったので、教科書に書いてあることは正しいことだと思って読んでいた。だから、私は社会の時間を通して学んだのである。あ、そうなの?公園って、役場の人が作るの?町長さんが決めるの?だから思ったのだ。だったら、町長さんに頼めばいいんじゃないの?と。本当に素直に思ったのだ。
母が夕飯の買い物か何かで家を留守にしたある午後、私は突然に決心した。町長さんに公園を作ってってお願いに行こう!と。それはまるで秘密のミッションのように感じられた。使命感に掻き立てられ、決心したら即行動。私は自転車に飛び乗り、キコキコと自転車を10分くらい漕いで役場に向かった。自転車を漕いでいる時も、そして役場に到着してからはなおのこと、ドキドキして、でも「これで公園が作ってもらえるー(←本気)」とわくわくして(めでたい)、緊張して高揚した気分だった。
役場にはそれまでにも何度か母と来たことがあった。でも、一般の人を受け付けるいくつかの窓口を目の前にして、私は迷った。どこの窓口で公園を作ってくださいってお願いしたらいいんだろう?小学3年生の女の子が一人で役場にいるのは似つかわしくない。目を泳がせて困ってる様子の私に、何かの窓口に座っていたお姉さんがカウンターの向こうから、どうしたの?と優しく声をかけてくれた。
あーよかったーと思った私は、でもやっぱりまだ緊張して高揚した気持ちのまま、お姉さんに、自分の家の近くの公園は遊ぶものが全然なくて遊べないこと、いつも行く公園はちょっと遠くて不便なこと、だからうちの近くの公園があったところに新しい公園を作って欲しいこと、それを町長さんにお願いしたいこと、を一生懸命伝えた。
その優しいお姉さんは、今思えば、ちょっと目を丸くしてたんだと思う。ちょっとだけクスクス、って感じで笑って(そして私はなぜこんな真剣な真っ当な訴えに対して笑っているのか謎だった)、ちょっと待ってね、と言い残して奥に引っ込んだ。そして少ししてまた出てきてから、出口を出て隣の玄関の方に来るように言ったのだ。その玄関とは、一般の人が使う玄関じゃなくて、いわゆる関係者の人が使う、なんか偉そうな玄関だ。一人残されてる間も緊張と高揚が続いていた私は、あー!町長さんに直接お願いすることができるんだー、と思って、ホッとして且つコーフンした。
件の玄関に行って待ってるとすぐに優しいそうな上品なおじさんが出て来て、やっぱり優しく私に言った。町長さんは今日は忙しくてこれないんだけど、おじさんが代わりに聞いて町長さんに伝えてあげるよ。どうしたの?と。私は、えーこの人、町長さんじゃないのか、と結構がっかりしたが、でも、ちゃんと伝言してもらわないと、と思って、先ほどお姉さんに熱弁を振るった内容をそのおじさんに再び一生懸命伝えた。
私の顔を見てうなずきながら聞いてくれたおじさんは私が話し終わった後、分かったよ、おじさんがちゃんと町長さんに伝えておくからね、とやっぱり優しく言ってくれた。そして最後に私の名前を尋ねたので、優等生だった私は元気に答えた。「船山和泉です!!」と。ここから若干記憶が曖昧なのだが、お父さんは何をしてるの?というようなことも聞かれたのかもしれない。もちろん私はやっぱり元気に父が当時勤めていた町内に営業所のある会社の名前を伝えたように、うっすらと記憶している。
ミッション、コンプリート。達成感に包まれて私は再び自転車をキコキコ漕いで家に帰った。そして、このことをすっかり忘れた。己のミッションはコンプリートしたのだ。あとは知らん。私はその実かなり緊張していたのだと思う。だけど公園のことをお願いしなくてはという根拠ない使命感がその緊張を凌駕していたというわけだ。が、緊張感からの開放感があまりに大きかったせいか、私は、家に帰ったあと、すっかり完璧にこのことを忘れた。
そして、2〜3日後だったと思う。外出から帰宅した母が家に入るなり慌てたように私に尋ねた「ねー、ねー、あんた、役場に行って、町長さんに公園作ってくださいってお願いしたの!?!?」と。ちょっと叫んでたかも。
その母の「ただならぬ」(苦笑)様子を感じてかどうかよく覚えてないが、すっかりそのことを忘れていた私は記憶(??)を呼び起こされると共に、「え、なんでバレちゃったの!?!?」と内心焦った。あれは秘密のミッションだったのに。秘密裏に一人ひそかにコンプリートしたはずだったのに(しかしなんで秘密だと思ってたんだろう?)だが、私はそんな内心の焦りを母に露呈すまいと、さもなんでもないことのように「う、う〜ん、行ったよ〜・・・(行ったけど、それが何か?)」とちょっとごまかして返答した。でもそのごまかしたような返答でも事実確認には十分だったようで、母は、「・・・え!・・・・え〜〜〜・・・・・!!!!〜〜〜」と、驚き、そして絶句した。今思うと、言葉を飲み込んだのだと思う。母がそのあと何も言わなかったので、なんとか大丈夫だったらしい(何が?)と思って、これ幸いにと、そのことについて私はその後一切触れなかった。母も何も言わなかった。
その翌日か翌々日か覚えてないけど、クラスメイトの男の子に「お前役場に行って公園作ってくださいってお願いしたんだって?バカでないか(北海道弁のアクセントで)」と言われた。その物言いにちょっと傷ついたが、当時の私はどうしてバカでないか、と言われるのか、心底分からなかったので(今はなんとなく分かるが)、スルーした。それから、母親が夕飯の買い物なんかに町に出かけるときに一緒に行ったりすると、会う人会う人が(小さい田舎町なので夕飯の買い物時には毎回のように知り合いに会う)「あ、和泉ちゃん!役場に公園作ってってお願いに行ったんだって〜!?すごいね〜」と私に言ったり、私自身が知らない人で母だけが知り合いの人であっても、母と一緒にいる私を見て「あら、あなたが和泉ちゃん!?あの役場に公園作ってってお願いに行った和泉ちゃん!?あら〜、この子なのね〜〜!?」などと言ったりした。そいういう風に言うおばさんたちが皆どこか面白がっている様子というかちょっとだけ小馬鹿にしている様子というか、「それ、ウケる〜」って感じだったのを子供の私は感じ取っていたが、それでも、どうしてそれが面白いのかウケるの、当時の私はやっぱり分からなかったので、ぼんやりとした違和感を感じながらも心の中でそういう反応をスルーした。そういうやりとりのたびに母は「そうなのよ〜・・・いや〜 もう〜・・・」などと、英語で言うところのembarrassment(=恥ずかしいと思う、当惑する)を体現してはいたが、はっきりとネガティブなことは言わないまま、なんとなく返している様子だった。私はやはりそれがなぜembarrassing(=恥ずかしと思う、困惑する)なことなのかピンとこなかったので、やはりスルーした。そういうやりとりについて私と母で話すこともなかった。
そんな人たちの中で、近所に住んでいて毎日のように遊んでいた仲良しのお姉ちゃんのお母さんだけが(その人にもこのニュース??は届いていたのであった)、私にそのことについてはっきりと「そういう和泉ちゃんは、すごい、えらい。おばさんそういう和泉ちゃんが好き」と言ってくれた。このおばさんは常日頃から「和泉ちゃんはハキハキしててはっきりしてて、いいね。おばさん、そういうの、好きだわ〜」としばしば言ってくれていた人だった。私の陳情行動(?)について褒めてくれたのは嬉しく思ったが、だが、なぜ褒められるのかが、なぜ笑われるのかと同じくらいに、分からなかった私は、やはりぼんやりとした反応をしていたと思う。
私は教科書に書いてあったからその通りにしただけなのに、どうして人々がそういう風に反応するのか、当時の私は、本当に分からなくて、困惑していた。
あとで分かったことは、私の訴えを町長さんの代わりに聞いてくれたあの優しいおじさんは、助役さんで、私のクラスメイトのお父さんだった。そしてその奥様、つまりクラスメイトのお母さんは、PTAの会長なんかをいつも務めるような人で、とてもおしゃべりな人(笑)だった。その助役夫妻は、いわば町の名士だったわけだ。
私の陳情行動は、SNSも何もなかった時代に、あっという間に、それこそ町中に広がっていたのであった。学校の先生にも「役場行ったんだって!?」と聞かれたし、そのあと、5年経っても、10年経っても、20年経っても、久しぶりにあった昔の知り合いとか、あとその話を直接母から聞いた親戚などにそのことを言われた(苦笑)。「和泉ちゃんと言えば、役場に公園作ってってお願いに行ったのよね〜」と、それはもうまるで正月の酒のつまみのスルメを何度も噛むがごとく、何度もあちこちで言われた。ちなみに、驚きと恥ずかしさ(←多分そういうことだったのだろう)から回復した母が、その事件(?)のすぐあとのお正月の時だったか、親戚が集まってる時にその話を親戚たちに面白おかしくしている時に「も〜 びっくりよ〜、それがまた、クラスメイトのお父さんだったのよ〜 その奥さんがおしゃべりでね〜」てな調子で話してて親戚も皆ばかうけしてる様子を見て、私は別に傷ついたりはしなかったが、これって、そういうタイプのネタなのかな〜??とぼんやりと思った。だがやはり、どうしてそんなにそれが面白ことなのか、まだ分からなかった。そのあと何年もしてからそのネタを話題として出される時もやはりイマイチ分からなかった。ドキドキもワクワクもしたが、自分は教科書に書いてあったからその通りに試してみただけだったし、ミッションをコンプリートした段階で、私にとってそのことは「もう済んだこと」であったから。
子供だった自分の突拍子のなさと、この顛末のおかしさみたいなものがなんとなく分かるようになったのは、多分高校生か大学生の頃だと思う。だが、やはり「なんとなく」だったと思う。そして母が感じたであろう驚きとある種の恥ずかしさが分かったのは、それこそ自分が親となってからだ(幼い頃の息子もそういうところがあったからであった)。
母が偉かったと思うのは、その母が感じた恥ずかしさみたいなものが私になんとなくは伝わってはいたものの、私がとった行動に関してネガティブなことをおそらくはあえて(そして一生懸命に。苦笑)言葉にして言わないようにしたのだろうと思われることだ。町で会う人とのやりとりの中でも、モゴモゴとはしていたものの、「本当に恥ずかしいわー」とか「困っちゃうわー」とかそういう言葉は発せず、ただ「ね〜 そうなのよ〜・・・ いやー 本当に〜 もごもご」にとどめていた。私が大人になってからたまに「あんたは本当に突然突飛なことするから・・・」と苦笑まじりに言っていたが、この時のことも頭にあったんだろういうのは想像に難くない。
ちなみに父は、母が死んだあと(つまりかなり後になって)の私との会話の中でふと「お前、役場に公園作ってくださいって言いに行ったことあったべ?」とこの話題を初めて(!)私に対して出したことがあった。「あの時、お父さん飲み屋で(!!)そこにいた人たちみんなに揶揄われてな〜〜恥ずかしかったな〜」と言うので、私が軽い気持ちで「嫌だったった?」と聞くと「そりゃあ、嫌だったさあ!!」と逆ギレ(??)されたことがあった。母が死んだあとで色々辛くてこのネタで娘に恨み節をぶつけて八つ当たりしたかったのかもしれないが(苦笑)、逆にそんなに嫌だったのに、当時の私には何にも言わなかったこと、父も偉かったと思う。
役場で私の相手をしてくれたお姉さんも、町長さんの代わりに私の話を聞いてくれたクラスメイトのお父さんの助役さんも、町で会った時にウケてたおばさん達も、近所のおばさんも、みんな温かかったと思う。母も父も、自分たちのメンツとか恥ずかしいと思う気持ちよりも、おそらくは我が子の資質を尊重しようして、あえて(多分、あえて)私に何も言わないでいてくれたこと、今振り返れば、とてもありがたかったと思う。
あの頃のような純粋さとか真面目さとか率直さとか、それに伴う行動力は今の私にはない(てか、われながら本当にバカでめでたかったいうか、ちょっとどっか外れてたと思うが)。まあ、あのまんまだったら周りも本人も結構困るだろうと思うが(苦笑)。でも、今でもたまに自分に起こる「思いついたら即行動パターン」を自覚する時(例えばいきなり走り出して5Kレース出るとか。笑)、これは私にトラブルをもたらすこともあるけど(あるある、ある〜)私の人生を面白くもしている私の一つの資質だなあ、と思ったりする。そしてそういう資質は、いつだって損なわれたかもしれない、と思う。例えば、そう、私が町長さんに公園作ってくださいと陳情に行った時やその後の人々の反応によって。特に両親や身近な人たちの反応によって。こういう資質が良い、ということではなくて、持って生まれたそういう資質が損なわれることなく歪曲されることもなく(まあ大人になるに従って、もちろん調整した/されたわけだが)、子供時代を過ごせたことをありがたく思う。そして小さな片鱗だけどそれが今の自分にもちょっとだけ残っているんじゃないかなーと思える瞬間があるのは、実はちょっと楽しい(家族とか身近な人は困ることもあるような気がするが。苦笑)。
posted by coach_izumi at 23:57| Slices of My Lifeー徒然ノート
2019年12月11日
母が亡くなって干支が一回りして振り返ること
母の癌がわかった時、最初は、何とか治癒して欲しいと思った。癌が無くなって欲しいと思った。そしてやがて、割とすぐに、癌が完全になくならなくてもいいから、寿命の長さの分だけ癌と共生してくれればいいと思った。母の容態が急変して文字通り生死の界をさまよって人工肛門(この呼び方、変えた方がいいと思うけど、とりあえず)をつけることになった後一人で苫小牧の温泉銭湯にみたいのに浸かっていた時、母の性格からしてもう2度とこういう場所で一緒に温泉に入ることはないだろうと思ってえらく悲しくなって泣けた(人工肛門でもお風呂、温泉はちゃんと入れる。ただ母の性格からして嫌がるだろうと思った)。その後程なく、どんな姿でも関係ない、構わない、ただ母が生きていてくれればそれでいい、だから生きて欲しいと強く思った。そして、脳への転移が分かって、余命は一週間ですと言われてすぐに熊本から苫小牧に行って、母の病室で寝泊まりしながら、痛みに苦しむ母の様子や強いせん妄状態にある母を毎日見た。結局余命一週間宣告を受けてから10日ほどで母は亡くなったが、その10日間、私は実家に着替えを取りに戻る時に、祖母の家から引き継いで実家に置いてあった仏壇にお線香をあげながら、毎日おじいちゃんとおばあちゃんにお願いして祈った。早く母を連れて行ってあげてください、早く苦しみから解放してあげてください、と。
そんなことを祈りながら、この段階的な自分自身の変化を振り返って、人って適応するんだなー、なんてことをその当時に感じていた。病状の進行に応じてある意味適応している自分にちょっとびっくりした。そして母が亡くなったあと、私の中で母はすぐに「死んだ人」になった。感覚的にはShe is so deadだった。まだ生きてるみたい、とか、信じられない、とか全然思わなかった。母は、あっという間に、完璧に、私にとって、「死んだ人」になった。でも、父は、母の生前も、死後も、ほぼほぼ適応できていなかったと思う。母の病気の現実が見えていなかったし、見ようとしていなかった。さすがにあと一週間ですと宣告された時は、もうすぐ死んじゃうだということは分かっていたと思うが、でも、何かが麻痺してしまった子供のような感じだった。じきに病室を引き払うことになるからと、ちょっとづつ病院から母の身の回りのものを家に持ち帰っていた私とはえらい違いだった(そういう自分もどうかとは思うが、私はそういう人なのであった)。亡くなった後のお通夜やお葬式では実務的には全くファクションできてなくて、初七日にお坊さんや親戚を迎えるために家を片付け掃除してヘトヘトになってる娘を尻目に一人でインタスタントヌードルを食べて(←食べ物の恨みが残るムスメ)、「涙が止まらないさ」と言って、メソメソ泣いていた。適応できない最たる例をそのまま生きてた父はでアルコール依存症になり(てか母が亡くなった時すでにそうだった。当時は知らんかったが)、結局3年してから、いわゆる後を追うように、亡くなった。
父が頼りないとか私がしっかりてしてたとか、そういうことではなく(いや、それはそうだと思うが、それは今回のポイントではない)、父は情があって私は冷たかったということでもなく(まー、そうかもしれんが)、まー、なんだ、こういう風に振り返ることができるくらいの時間が経ったんだなー、と思う。上記の自分の変遷について、記憶があるうちに書いておきたいと思っていたが、でも書けるようになるには、干支が一回りする必要があったということなのかな。
あと3週間で今年が終わって、来年になってからまた干支が一回りするころ、私は何を記しておきたいと思うのだろうか。
そんなことを祈りながら、この段階的な自分自身の変化を振り返って、人って適応するんだなー、なんてことをその当時に感じていた。病状の進行に応じてある意味適応している自分にちょっとびっくりした。そして母が亡くなったあと、私の中で母はすぐに「死んだ人」になった。感覚的にはShe is so deadだった。まだ生きてるみたい、とか、信じられない、とか全然思わなかった。母は、あっという間に、完璧に、私にとって、「死んだ人」になった。でも、父は、母の生前も、死後も、ほぼほぼ適応できていなかったと思う。母の病気の現実が見えていなかったし、見ようとしていなかった。さすがにあと一週間ですと宣告された時は、もうすぐ死んじゃうだということは分かっていたと思うが、でも、何かが麻痺してしまった子供のような感じだった。じきに病室を引き払うことになるからと、ちょっとづつ病院から母の身の回りのものを家に持ち帰っていた私とはえらい違いだった(そういう自分もどうかとは思うが、私はそういう人なのであった)。亡くなった後のお通夜やお葬式では実務的には全くファクションできてなくて、初七日にお坊さんや親戚を迎えるために家を片付け掃除してヘトヘトになってる娘を尻目に一人でインタスタントヌードルを食べて(←食べ物の恨みが残るムスメ)、「涙が止まらないさ」と言って、メソメソ泣いていた。適応できない最たる例をそのまま生きてた父はでアルコール依存症になり(てか母が亡くなった時すでにそうだった。当時は知らんかったが)、結局3年してから、いわゆる後を追うように、亡くなった。
父が頼りないとか私がしっかりてしてたとか、そういうことではなく(いや、それはそうだと思うが、それは今回のポイントではない)、父は情があって私は冷たかったということでもなく(まー、そうかもしれんが)、まー、なんだ、こういう風に振り返ることができるくらいの時間が経ったんだなー、と思う。上記の自分の変遷について、記憶があるうちに書いておきたいと思っていたが、でも書けるようになるには、干支が一回りする必要があったということなのかな。
あと3週間で今年が終わって、来年になってからまた干支が一回りするころ、私は何を記しておきたいと思うのだろうか。
posted by coach_izumi at 09:35| Slices of My Lifeー徒然ノート