2014年04月29日

サボタージュ

自分の価値観にそった選択や行動ができていれば、私たちの生活や人生は充実感に溢れるものとなります。けれども、充実感を求める「願い」の気持ちよりもさまざまな「恐れ」が色々な形であらわれて、「本当にしたいこと」を邪魔することがあります。これを「サボタージュ」と呼びます。

サボタージュは、イライラや、怒り、退屈、あきらめ、自己欺瞞、自己犠牲、無関心、不自然あるいは行き過ぎた楽観主義、そうしてそれらを正当化しようとする心やアタマの働き・・・などなど、色々な形で表れます。

例えばもっと定期的に運動しようと思いながらなかなかできないクライアントさんの例(少し詳細を変えてありますが、ご本人の許可をいただいて書いています)。

もっと運動した方が良いというのは分かっているし、自分もしたいと思っているけど、いまひとつ行動につながらない。その行動を止めてしまう「何か」は何か、という問いに対する回答から見えてきたのは「サボタージュ」の存在。(コーチングのギョーカイでは「サボ」と呼んだりします。)

だって。
その「サボ」が言うんです。

だって
仕事が忙しい。
だって
たまの休みはのんびりしたい。
だって
休みだって忙しい。
だって
今度の週末にすればいいし。
だって
最近運動してないから、いきなりすると、しんどいし。(これ、個人的にウケました。笑)

この時コーチから
「仕事が忙しいからって健康がまず第一でしょう」とか
「そんなこと言ってこの週末しないんだったら、また来週もしなくなっちゃうでしょう」とか
「いや、てか、運動してないから、できない、っておかしいでしょう。だからこそ、すこしずつでも始めた方がいいんじゃないですか」とか

あれこれ言っても、だめです。というか、それはコーチングではありません。

常套手段のコーチング・スキルとして、その「サボ」を擬人化(と言っても、別に「人」である必要はないのですが)してもらうというのがあります。イメージだけでもいいのですが。そのサボの声はどんな声なのか、そいつはどんな形や姿をしているのか、そしてどこにいるのか、などなど、コーチの質問に沿ってイメージしてもらいます。

自分のおなかの中にいる、なんて場合もあれば、自分の上にぷかぷか浮いている、とら、背後からぺたりとくっついている、とか、色々出てきます。

そして、イメージがある程度分かったところで、私がよくするのは、私がその「サボ」を演じてみるというものです。

イメージに合わせて(笑)、ささいてみたり、投げやりな言い方をしたり、えらそうな言い方をしたり、媚びた言い方をしたり、とにかく、私がサボになってクライアントさんに言うのです。

「だよね〜。仕事忙しいもんね。運動なんてできないよね〜」とか
「あ、そうそう、来週したらいいよ」とか
「いやいや、最近全然運動してないんだから、いきなりするとやばいよ。今日は休もう」とか。

容赦なく、迫真の演技(笑)をすることが大事です。
そしてしっかりと、クライアントさんに自分のサボの声を聞いてもらうのです。
だから、私はクライアントさんがかなり「むかつく」ような言い方をすることも、あります。すごくキツい言い方をして、その瞬間、クライアントさんがホンキで凹むこともあります。

それから、クライアントさんに問います。
あなたのサボ(=ここでは私)に対して、なんて言い返したいですか、と。

すると
「仕事が忙しくても、身体がやっぱり資本だから」とか
「そんなこと言ってたら、結局来週もしないよ」とか
「運動してないから、今日はしない、っておかしいよ。だから今日するんだろう」とか。

ま、そういう風にクライアントさんは言い返すわけです。

このクライアントさんのケースではないですが、私の迫真の演技のサボに対して「私はそんな人間じゃない!」とムキになって言い返したクライアントさんもいます。

そう、分かってるんです。クライアントさんは分かってる。
ちゃんと、自分がどうしたいのか、どうするべきか、分かってる。
だいたい、上記の回答も、普通に考えればしごく当たり前のことですよね。

でも、それを、自分の口で実際に言って、それを自分で聞く、ということ。
それが、肝です。

不思議なもので、サボに行動を阻まれている時、当たり前のことや正論も他者(この場合、私)に言われると、「だって」「だって」とますますサボタージュをパワーアップさせてしまうのです。

人に言われても、しない、ってやつです(ま、うちの息子の宿題と似ているような・・・笑)。

でも、自分が自分に言われると、どこかで分かっていたけど目を背けていたことが、「分かる」んです。腑に落ちるとでもいうか。言い訳出来なくなるというか。

そしてクライアントさんは自分の発言でもって、自分自身に大きなインパクトを与えることができるのです。

でも「自分の口で実際に言って、それを自分で聞く」ということは、一人ではできないし、日常の会話ではなかなかできません。

ためしに、運動じゃなくても、ダイエットでも、英会話でも、なんでもいいので、「しようしようと思っていてできないこと」について、ご家族やお友達と話してみてください。

多くの場合・・・あなたが聞くことになるのは、彼らの意見やアドバイスや励まし(当たり前です)。そしてあなたはそれを聞きながら「分かってる<けど>」「だって」と心のなかでつぶやいているでしょう。そして口に出すかどうかは別として、様々な言い訳や反論で自分の中をいっぱいにするでしょう。

あなたが聞くべきは、彼らの声じゃなくて、あなたが聞かないふりをしているあなたの本当の願いです。
聞こえないふりをしている(だって聞こえない方が楽だし)あなたの本当の声。

そこで、コーチが登場するというわけです。

コーチがあなたに聞いて欲しいのは、コーチの声ではありません。
あなた自身の声なのです。

あなたの声。
聞いてみませんか。





posted by coach_izumi at 23:23| Coaching Skillsーコーチングの技術

2014年04月01日

好奇心(その2)

【好奇心は信頼を生み出すが尋問は不信を生み出す。】

コーチがクライアントさんとの信頼関係を築くために、必要不可欠な資質が「好奇心」です。だからコーチはクラインアントさんに色んな質問をします。

多くの場合、自分のことに興味を持ってくれているのだ、と感じられるのは嬉しいことですから。それは自分という存在に価値があるのだ、と思えることにつながります。

でも、それが「何かを探り出そう」という“尋問”あるいは“詮索”になるとクライアントさんは、ぴしゃりと心を閉じてしまいます。

これはきっとコーチングという場に限らず、一般的な人間関係にも言えることでしょうね。

でも、どうやって好奇心からの質問と詮索からの尋問をはっきり区別するのか?というと、ちょっと一般的な人間関係の場合とは違うかもしれません。

というのは、コーチの「好奇心」はコーチ自身(クライアントさんに対する)の好奇心を満たすためのものではなく、クライアントさんのクライアントさん自身に対する好奇心を刺激してクライアントさんが自分自身を理解することを助けるためのものだからです。

だらら、コーチは自分の「好奇心」を意図的に活用してクライアントさんに質問を投げかけつつも、自分自身がクライアントさんについての「情報」を得ることを重視しません。

クライアントさんはどんな人なんだろう?どんなことにわくわくするんだろう?本当は何がしたいんだろう?などなど・・・コーチは最大のそして純粋な好奇心をもってクライアントさんに質問を投げかけます。でも、コーチ自身はその「答え」を必要としないのです。

「答え」はクライアントさんが得ることができればいいのです。

そしてそのためには、コーチが情報や答えを得ようとすることはむしろ妨げとなる場合があるのです。(答えを得てあげくのはてにコーチがクライアントさんを「分析」しちゃったりすると、妨げ度マックスになります。)

だからコーチは相手に対して「最大の純粋な」好奇心を持ちつつも相手からの答えを欲しない・・・というような「筋肉」を鍛える必要があります。

これ、一般的な人間関係におけるコミュニケーションではなかなかしないことなので・・・

私的には、実はこれ、ちょっと難し目のスキルです(笑)。

だって、ふつう〜、好奇心があったら、答えを知りたいでしょ?情報を得たいでしょ??
私はもともとはふつう〜の好奇心満載のふつう〜の人なので。

だから好奇心をそのまま満載にしつつも、答えを必ずしも求めない・・・という「自己管理」が必要になるのです(この「自己管理」もコーチングにおいて大事なスキルのひとつです。)

だから、日々鍛錬・・・してます。ほんと。


あ、でも今度、自分の子供相手に練習してみようかな??

私「今日、学校どうだった?」(好奇心)
息子「べつに〜」(答えがない)←よくある回答
私「・・・・」(答えを求めない)←ふだんは「べつに〜、って何よ〜〜??」と尋問風になること多し(笑)。

・・・いいかも・・・です(笑)。
posted by coach_izumi at 23:53| Coaching Skillsーコーチングの技術

2014年03月27日

価値観


コーチングを行う上で、クライアントさんの「価値観」はどのようなものか、ということについてコーチとクライアントの間で共有しておくことがとても重要です。しかし、自分にとって何が大切で何が大切でないか、ということについて、きちんとゆっくり考える時間は日常生活の中であまり持てません。多くのクライアントさんが、心の奥底では分かっているけど日々に取り紛れて忘れていることが多いのが、実はご自身の「価値観」です。

ですから、コーチは多くの場合「導入セッション」と呼ばれるコーチングそのものとは別枠の時間を設けます。そして、コーチングを始める前にこの「価値観」を探るような質問を投げかけ、クライアントさんと一緒にクライアントさんの価値観を明確にしていきます。

この価値観を明確にしてゆくための質問や方法には多くのものがあります。私にとって「響く」質問のひとつは、「自分がこの世を去ったあとに、残った人に『どんな人だった』と言ってもらいたいですか」というものです。

ちなみに、実際のセッションではいきなりこういう質問を唐突に投げかけたりしません^^;; それなりの時間をかけてクライアントさんがよりリアルなイメージを持って状況を想像して質問に答えられるように促すために、あれこれと前段階を踏みます。(だから、その時のことを想像して泣いちゃう方とかいますよ。)

セッションでゆっくりと時間ととってきちんと自分と向き合うと、あらためて自分にとって何が大切で何が大切でないのかが分かります。つまり「価値観」を再認識できるわけです。

時にはただそれだけで、今悩んでいる事が、その「価値観」に照らし合わせてみればどうでもいいことだ、ということに気がつくこともあります。あるいは「やっぱりこうしたいんだ」という決断につながることもあります。


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(以下、長文でかつ個人的なことになります。それでも構わない、という方、お読みください。)

コーチングからは離れるのですが、「価値観」という言葉で思い出すのは、私の亡くなった父のことです。

私の父にとって、おそらくは最も大切であったことが「自由であること」でした。たまたまなのですが、私は父とのある会話を通してそのことを明確に知っていましたし、また、父自身の生き方をみるにつけ、父の私への関わり方を私自身が体験するにつけ、そのことについての確信が私にはありました。

父がかなり進行しているがんと診断された時、父は一切の医療行為を拒みました。その「拒み方」は、ちょっと、どうなの??ってレベルで・・・^^;;

検査入院するはずだった病院から文字通り脱走をはかるわ、公的機関から手配された訪問看護士さんに罵声を投げかけ追い返すわ・・・--;; (血圧もはからせない、って... どうなの??^^;;)
あげくの果てに、(肝臓がんだったので)一切禁止されていたのにも関わらず、自宅でお酒を飲んだくれてるし・・・
もちろん、私の家にもどこにも行かない、ずっと自分の家にいるのだ、と、てこでも動かない。
決して誰にも、管理されたくない、あれこれと一切言われたくない。
それが父でした。
もう自分のことを自分で管理することは、できない状態なのにも関わらず。

医者も親戚もケアマネージャーも看護士さんも、そして私も困りました。

医者には医者の職業倫理がありますし、ケアマネージャーさんも少しでも父の心身に良い事を、といろいろ手配してくれているわけですし、父のことをとても気にしてくれていた親戚にしても、やっぱりちゃんと入院して治療をして少しでも安全に過ごしてもらいたい、そして少しでも長く生きてもらいたい・・・と願ってくれました。

もちろん、当人である父の意志が尊重されるべきは当然とは言っても、最終的に判断をして「書類にサイン」する、その決断をするのは当時唯一の近親者であった私でした。

私は、結局、基本的に「父の好きなようにさせる」ことにしました。
(そうは言っても、私は当時父と離れて暮らしていたので、やっぱりいろんな手配が必要で、その手配をも拒む父にとのやりとりには、ほとほと困りましたが・・)

そりゃそうだ、って思います?ご本人がそう望んでいるんだから、って?

でも、そういう現場でいろ〜んな機関や人と関わった経験がある方なら、分かると思うんですが、これって、かなり、ふつうじゃないんです。「非常識」なんです。私のことを不道徳、と考える人もいたと思います。

だって、ねえ、余命幾ばくもない父親を遠くに一人残して、な〜んにもしないんですよ。

だから周りに迷惑もかかるし。父だって、身体、しんどいんだし。

非常識な父と非常識な娘。

いろんなことがありました。いろんな摩擦がありました。いろんなことを言われました。私には親子の情がない、冷たい、無責任だ、などなど、言われた事もあります。

父もまた、いろんな人からいろんなことを言われました。もちろん、心配ゆえ、ですが。

私はと言えば、相当父には腹をたてました。けんかもしました。なんとまあ勝手な親かと思いました。「少しは私のことも考えてよ!!」という言葉も投げました。余命いくばくもない病人とか関係ないほどの、大バトル(笑)。取っ組み合いまでしました。(するか!?ふつう^^;)

特に「何もしないこと」でかえって心配や迷惑をかけることになった、親戚には本当に申し訳なくてまた有り難くて、身が縮む思いでした。

でも私が結局「父の好きにさせる」ことを通したのは・・・
父にとって一番大切なことが「自由」だということを知っていたから。
父にとって一番嫌な事が、それがどのような形であれ、「管理される」ことだと知っていたから。
そして、誰でもない私が一番そのことを分かっているのだ、という確信があったからです。

結局父は、病気の進行状況から考えると、驚くほど「早く」に一人で自宅で逝きました。

もし、何らかの医療行為や管理を受けていたら、おそらく父はもっと長く生きたでしょう。そして最期に病院で息を引き取ったでしょう。そのときに、そばに私がいた可能性もあったと思います。

父が亡くなってから、色々な思いを抱きました。
今でも胸が痛むことがあります。

そしてほんとうに不良病人で周りのことをな〜んも考えてくれなかった父に対して、「おとうさん、ちょっとは私のことも考えられんかったんかね〜」と半ば飽きれ半ば怒る、ような気持ちになることもあります。

だけれど今も確信しているのは、父は父の「価値観」に沿って生き、そして死んだのだということです。
そして私は父の「価値観」をたまたま知っていて、また、共有していました。

だからこそ、一見非常識で不道徳な決断をして、父をはらはらいらいらしながら見ているしかありませんでした。

それを貫くためには、周りも大変だったけど、本人も大変だったと思う(失笑)。
そこまで「わがまま」になるって、なかなかできることじゃない。
だからこそ、少なくとも父に「後悔」はないだろう、とは思っています。


父の葬儀に来てくれた父の昔の友人に、父が亡くなる前の事情や様子を聞かれたので、上記のような話をかいつまんでしました。

そうしたら、何十年も前から父を知っていたその方、天を仰いだあと、目を閉じて、大きな嘆息とともにこう言ったのです。


「ああ〜・・・・・ふなさんらしいな〜・・・」と。
(「ふなさん」は父のニックネーム)。


私はその言葉を聞いて泣きそうになりました。

少なくとも父は、最期まで父らしく生き父らしく死んだのだ、と思いました。
そして、こう言ってくれる人がいて、良かったと、感謝の気持ちでいっぱいになりました。






posted by coach_izumi at 23:53| Coaching Skillsーコーチングの技術