2022年02月04日

55歳の誕生日を迎えて

先日、55歳の誕生日を迎えました。

若い頃は誕生日と言えば自分のためのお祝いとしか考えてませんでした。
でも、55歳の誕生日は、父母&祖父母のお位牌と写真にお供えしているお水を替えて手を合わせて、しみじみと彼らに命を与えてもらったことそして愛してもらったことに感謝する気持ちになれました。

普段は結構簡単に人を妬んだり羨んだりしますが(こっそり思ってるだけで言わないけどw)、誕生日に父母や祖父母に心の中で話しかけながら手を合わせると、今の自分が持っているものがつくづくと有り難いことであるよという気持ちが、驚くくらい自然に湧いてくるのでした。

あらゆることに恵まてきた幸せな55年間でした。そしてあらゆることに恵まれている幸せな55歳です。リアルであれバーチャルであれ一方通行であれ双方向であれ、私の人生の一部をなしてくれている皆様に感謝。
そして皆様の人生にほんの少しでも関わらせていただいてることに感謝。
posted by coach_izumi at 03:04| Food for Thoughtー感じたこと思ったこと

2021年02月13日

父の親友

一億総中流という言葉が流行った頃(それは昭和の昔)、当時小学生だった私は母に「うちも中流なの?」と尋ねた。母はちょっと苦笑いして「うちは下流かな」と答えたので私はびっくりしたw  そう言えば祖母は読み書きがちゃんとできなかったし、私はずっと自転車買ってもらえなかったし(そんでねだってねだったみんなが乗ってたタイプよりも安いタイプのをようやく買ってもらったけど一人だけ仕様がみんなと違ってダサいっていじめられたし)、私は船山家では初めての(そして最後の〜なぜなら私が船山の最後の人間だから)大学進学者であったし、確かに我が家は庶民であった。が、私の父親は、なぜか、お金持ちと仲良くなる、それもすごく仲良くなる、と言う特技(?)があった。北海道でも茨城でもそうであった。と言っても、ヘッジファンドでぶいぶい言わせたぜとか(そんなものは当時ないが)、ITベンチャーで成功したとか(そういうのも当時はないか)、はたまた大会社とか大きな組織の偉い人、とかじゃなくて、代々土地持ちのお金持ちで本人は至ってのんびりいい人で、暮らしぶりも全然派手じゃなくて、はっきり言って全然お金持ちに見えません、みたいなタイプ。
北海道で私たちが住んでいた隣町に「N御殿」と地元の人が呼ぶ御殿、じゃなかった、豪邸に住んでいた、なんだかやたらお金持ちのNさんはまさにそういう人で、そして父の生涯の友であった。(別に父が土地を分けてもらったとか株の配当をもらったとかそういうことはなかったですが、自分の山で取れるフキとか山菜をいつもそれこそ山のようにくれましたw)そのNさんと父が生涯の友となるべく出会った頃のエピソードを以前父が話してくれたことがあって、今でも時々思い出す。

当時Nさんと父は北海道の林業・材木関係の会社に勤めていて、一緒に日高山脈の山奥に車で出かけることがあった。車の中で缶入りの飲料か何かを飲み終わった父は、その入れ物を、走っている車の窓からひょいと捨てようとしたらしい(←けしからんね^^;;)。するとNさんが、「おいやめろ。捨てるな。俺があとで始末しておくから」と父を諫めて止めたと言うのである。父はその時「こいつ、すごいな、と思った」、と私に話してくれた。その後、Nさんと父の交流は生涯続き、父はNさんを「俺の親友」と称していた。ちなみに父は「俺はあれから絶対に物を山に捨てなくなった」と私に話してくれた。

父は当時20代だったはずだが、高校の時に同級生をいじめた上級生にリベンジするために同級生を集めて父が先頭に立ってやっつけに行った(そして勝ったと自慢していた〜真偽は分からないが)、みたいな若者であった。そして高校卒業後の進路で祖父(=父の父)と衝突し、家出をして1年間行方不明になり、ようやく帰ってきたら重機の運転してフリーで仕事してました、みたいなそういうタイプ。ついでに言うと当時は会社員でこそあったが「職業、山男」みたいな仕事をしていた。そういうヤンチャな父が(林業関係者以外は)誰も来ない山にゴミを捨てるという、ヒジョーに不道徳的な行為であっても多分多くの人がやっちゃってたであろうという行為をするのを、それも昭和の昔の当時に、はっきりと言葉で諫めて止める、というのは、誰にでもできることではないと思う。私も何度も直接会ったことがあるNさんは、のほほーんとのんびりしてるいいおじさん、って感じで、死ぬまでヤンチャだった(←娘は困ったよ^^;)父のような人間にそういうことをはっきりと言って諫める図は想像できないが、私はNさんは素敵な人だなーとそのエピソードを聞いて思った。そしてそういうNさんに対して「こいつ、すごいな」と思ったという父についてもまた「お父さん、いいじゃん」と思ったのであった。

父が余命宣告されて、でも頑として一切の治療も世話も拒んで一人で北海道の自宅で暮らしていた時(いや、だから一人娘は困ったよ^^;)、Nさんに電話してこれこれこういう事情なんで、父が生きてるうちに父に電話しておしゃべりしてやってくれないか、そして私が電話したもことも病気のことも黙っててくれないか、とお願いした。Nさんはすぐにそれも何度か父に電話してくれた。不良病人だった父と私はよく喧嘩していたが、それでも父は私に「Nから電話来てさ〜色々しゃべってさ〜いや〜面白かった〜」と嬉しそうに言ったものである。ひひひ、それは実は私が仕込んだんだよ、とは、武士の情け、父には言わなかったし、最後に生きている父に会った時も実は喧嘩別れしてしまったのだが、あの仕込みは最後の親孝行だったな、と思ってる。

父が自宅で亡くなっているという知らせを受けてその日に熊本空港から千歳空港に飛んだが(直航便はなかったけど)、熊本空港で私が親戚以外に電話した二人のうちの一人がNさんで、Nさんは奥さまと一緒にお通夜から来てくれた。

通夜振舞いの席でNさんと奥様にお礼を言ってお話をしていたら、奥様が突然、唐突に、私にこんな話をしてくれた。

XX日の夜中に二人ともなーんだか寝られなくて、そんなこと普段はないんだけど、二人とも茶の間に出てきたのさ(←北海道弁w)。そしたら、この人(=Nさん)、なーんにもないところで突然転んで、おでこ怪我したのさ。ほら(傷を指す)、ねー、何やってんだべね(←北海道弁w)。

Nさんの額には確かに新しい傷があって、Nさんは、テヘヘ、って感じで苦笑いしていた。

父は自宅で一人で亡くなっていたところを発見されたが、実はその前の日に近所に住む親戚が父の様子を見に会いに行ってくれていた。普段は一週間に一度父の様子を見に行ってくれていたその親戚は、父と兄弟のように育った父の従兄弟であった。生きている父と最後に会ったその翌日の昼頃に、「なんだか気になって」父の様子をまた見に行ってくれたのだった。そこで居間に倒れていた父の遺体を発見して私に連絡をくれたという顛末だった。XX日の夜中はその親戚が最後に生きている父にあった日の夜中で、死後硬直などの状態から、おそらく父が亡くなったのであろうと推察される時間帯だったが(自宅で一人でなくなったので正確な時間は分からない)、そのことはNさんご夫妻には伝えてなかった。

父の遺体には、その従兄弟が最後に父に会った時にはなかった生傷があって、きっと亡くなる前に転んだだろう、とその従兄弟は言っていた。そのことも、Nさん夫妻には全く言っていなかったが、Nさんのその新しい傷は、父の傷と同じ場所にあった。

「Nって俺の親友がいるんだけど、そいつが俺、大好きでさー」と、酔っ払って何かの雑談の時に親戚の誰かにに嬉しそうに父が話していたことがあった。私は二人の傷のことに、ちょっと驚いたが、お父さん本当にNさんが大好きだったんだなー、と、もうただ、そう思うだけだった。


posted by coach_izumi at 05:23| Food for Thoughtー感じたこと思ったこと

2020年03月16日

トイレットペーパーがなくなる恐怖(分かる〜!)その2

先日再掲した5年前の投稿の続き。

トイレットペーパーがない〜〜!!!
その恐怖、体験したことあります。
分かるよ〜(涙)。

そして、そのほとんど人生最大の危機に、私に起こったのはパラダイムシフトだった。

そっかー お手製ウォシュレットと思えばいいのよっっっ。

・・・てか日本て、日本て、最近はどこでも本当のウォシュレット完備してるんじゃいのーー???

ーーーーー
タイトル:私が絶対にできないと思ったこと(2)

うわ〜〜〜〜〜、どお〜〜〜、しよ〜〜〜。紙が、もう、ない〜〜〜〜!!!
(↑正確を期するために加筆すると、この時、全くなくなったわけではなくて、「ほぼ」ない状態です。)

・・・・その時、ふと目にはいった「風景」。
それは、そこに住む友人カップルが用を足す時のためにためている水おけ(結構大きかった)。

その水おけから右手で手酌のようなものをつかってその部分に水を流しながら左手で洗うんだよ・・・ということを友人から聞いてはいたのです。でもまさか、自分がその行為をするとは全く思っていなかったので、「ふ〜ん」程度にしか聞いていなかった。だって「まあ、私は(絶対)使わないから〜」。だから、その水桶はもちろんずっとそこにあったんだけど、意識には入ってきていなかったのです。

ところが、ふとしたその瞬間に、熱でぼ〜っとしていた私の目に、その水桶の水は、「すごく清らかで美しい」風景として飛び込んできたのでした。まじ、水桶に張った水がきらきらして見えた。本当に、表面が輝いて見えました。

そして私はぼんやりと夢想したのです。こんなに清らかで輝いている水でお尻を洗ったらすごく気持ちがいいだろうな〜・・・と。

そしてそれは、今までには存在しなかった(というかただ単に見えてなかった)「新しい」可能性として私の前に浮上したのです。

その「可能性」は、いや、だからさ、そうしたらいいんじゃないの?!という己に対する叱咤激励へと変化していきました。だいたい、この国の人はみんなやってんのに、あんただけができないってのは、どういうことよ!?と思うに、自分が情けなくもなるし(下痢で十分情けないのに)。


てか、もう、私は、そうしたいのよ!!(願望というより絶望?)
だいたい、もう、紙がないんだし〜〜!(それしか、ないっしょ!?)

というものの、心のブロックというのは強力です。今こうしてつらつらと当時のこと思い出しながらタイプするにつけ、なぜあんなに強固に無理、って思い込んでしまっていたのか、もう、自分でもほとんど訳分からないくらいなのですが、「いや、でも、いや、あの、うわああ、できない〜〜〜」という気持ちと「でも、もう手段もないし、背に腹は代えられないし〜〜」という気持ちの間で、私はおおいに揺れました。まるで嵐の中のブランコのごとく(陳腐な表現ですが、ほんとにそんな感じだったのです)。

郷に入れば郷に従え〜~~!!
Do as Romans do in Roooome!!
と、日本語でも英語でもで心の中で叫んでいるのに、ど〜〜〜してもできない。

でも、でも、でもぉ・・・・

と、その瞬間、私は閃いたのでした。
まさに、ピッカーーーーンって感じ。
まさしく天の啓示を受けるがごとく。

ああっっっ。
これって、これって、これって、実は(?)、

「お手製ウォシュレット」

なんじゃないの??って。

あ、そっか〜。な〜んだ、そうだよ、お手製ウォシュレットじゃん。
だったら平気じゃん!!

そのころは今ほどウォシュレットは普及していなかったのですが、私はさらにたたみかけるように自分自身に心の中で言いました。

そうそう、ウォシュレットなのよ。これはそれを機械じゃなくて手でするってだけ。ちょっと進んだ人は(??笑)みんな(って誰?)ウォシュレット使ってるのよ〜。ね〜。私に使えないわけないじゃん!!(使ったことはまだないけどぉ)

それにさ、お風呂とかでお尻洗う時だって手で洗うわけだよね??
お風呂ではいつもできることが、今ここでできいないって法は、ないでしょ??

そうだ、風呂だ、風呂。風呂と同じじゃん。

↑なんて一人ダイアログを熱でぼ〜っとした頭の中で一人繰り返しながら、私はついに「決心」に至ったのでした。
「よし次のチャンスが来たら、トライしよ!!」

そして次のチャンスはあっという間に来たのでありました(だって人生最悪の下痢だから)。

このブログを書いている私の横で夫は「“清水”の舞台だね。うはは」と、どーしょもないこと言って一人ウケてましたが、私はまさに清水の舞台から飛び降りるくらいの気持ちで、えいや、と、その清らかな水(つまり清水ね)が入っている水桶に右手でもって手桶をトプンと入れて、水を汲みました。そして当該部分目指して、決行。ちょろちょろ・・・と流れる水。あれえ、うまく「当たらない」。これは実はテクがいるのね。と意外な難しさに気がつく。よしもう一度。ちょろちょろ・・・お、当たった、当たった。やっぱりどんぴしゃとはいけなくて、ちょっと水が無駄になっているけど(上級者はわずかな水で効率よくできるのです)、初心者だから仕方がない。何事にも初めてはあるのだ。

そしてここからが、いよいよハイライト(?)。
水の「ちょろちょろ」のタイミングに合わせて左手で当該部を洗うのであります。
そろり、そろり、えいやっと。

お、できた、できた〜〜!
なぜか達成感。
そして私は思わず目を閉じて人心地ついてしまいました。だって

「うおぉ・・・気持ちいい・・・」

ひどい下痢の経験がある方はお分かりと思いますが、そう、出口が痛くなるんですよね。だから、紙を当てるのがすごく辛くなる。私もその時(なんてったて人生最悪の下痢なんで)、すごおおおおく、痛かったんです。もう、ひりひりなんてもんじゃない。できることなら一枚の紙もあてたくなかった(それなのにあれほどトイレットペーパーを切望するなんて、自己矛盾?)。

だから、水と手だけを使う方法は、実に体への負担がなくて、ほんと〜〜に、気持ちが良かったのです。それはまさにちょっと前に流行った「癒し」のごとく。自分でちょろちょろと流す水もだけど、使った自分の左手が、本当に柔らかく優しく感じました。手、ってこんなにも優しいものだったのか、と驚いたほど。最近花粉症対策などではやりのローションティッシュどころのレベルじゃありません。

あ〜〜、も〜〜お〜〜、な〜んだ〜〜ああ。
最初っからこうすりゃあ良かったんじゃないの〜。もう、絶対こっちの方がいいじゃないの〜〜。も〜、わたし、ばっかみたいだったな〜〜〜。

あれほど強固に「できない〜っっっ!!」と思い込んでいたことなど、まるでそれまでの私の人生にはなかったかのように、私は笑っちゃうほどコロリとこの「水と手」方法に心酔。まだほんのちょっとだけ残っていたトイレットペーパーに見向きもせず(とは言え、初心者ゆえびしょびしょ濡れてしまうので、それを多少でも拭くためだけに、一度につき5cmづつくらい使用しましたが)、その後も水と手で処理をし続け、夜を明かしたのでした。

翌朝。

私はようやく最盛期を過ぎた下痢の隙間をぬって布団でうとうとしておりました。そこへ私の異変に気がつき、「こと」を理解した友人が「い、いずみちゃん、だいじょうぶ??」とやってきました。そして友人が、うわっ、と気がついた感じで「ね、ね、トイレットペーパーはっっ!?足りなかったでしょっっ!?」(友人もかつて同じようなことを経験しているので、必要量が分かる。笑)と私に心配そうに聞いてくれきました。 

私がかくかくしかじか・・・と私の真夜中の冒険について話をするとその友人は「あら、できたのね?」だって。私も「うん、できたよ〜」とまるで小学生がお母さんに報告するかのように答えました。友人は「いやあん、おめでと〜。できたのね〜」だって。

その日予定していた山登りは当然中止。どころか、滞在中予定していたいろんな観光系のことはすべてキャンセル。私は山の中で友人が作ってくれたおかゆを食べて布団で過ごしましたが、その分ゆっくりとひさしぶりに友人と色んな話ができたので、それはそれで、とても良い時間を過ごしたのです。


さて、「絶対にできない」とか「ものすごおおおく抵抗感のあること」でも、やってみればなんてことない、どころか、実はうんといいことだった、てのが、一応このエピソードのポイントのひとつで、だから絶対にできないってのは実はただの思い込みでそこに色んな機会や展開が待ってるかもしれないですよん、というのが(もともとは)今回のブログの趣旨(だったはず)なのですが(なんか本来の趣旨がトンでしまった気が・・・苦笑)、この時の体験から、私はそのこと以外にも実に色々なことを学び感じそして反省しました。

たとえば「お手製ウォシュレット」ひとつにしても、結局私は、自分の文化的枠組みの中で目前の事象を解釈できる/することなしには、異文化を受容・体験できなかった、ということなんだよね〜、とか。逆に言うと、自身の枠組みの中で事象を再構築できれば、自分にとっては初めであったり抵抗感があることでも、案外容易くできるってことか、とか。

さらに、そこにそれがあるわけだから(てか、それしかないし、それがそこでは当たり前なわけだから)、つべこべあれこれ考えずにそのまま受け入れてそのまま(そこのひとたちがやっているように)やればいいじゃん、っていう、ごくごくシンプルで当たり前のはずのことが、自分はなかなかできなかったんだな〜、と振り返れば思うのです。(そしてこうして書きながら、そう言えば、こういう傾向は現在の自分にもあるなあ、と気がついたりしております。)

文化に優劣はありません、とか講義しちゃいながら、実際には自分にはなじみのない習慣に対してよく知りもしないで「きたない」って感じてたよなあ、とか(この体験を経て、手と水で用を足す方が、もちろん場合によってだけど、紙を使うよりも「実はよっぽどきれい」なんだと思うようになった。おまけにエコ。←だからと言って今の環境でわざわざそうするということではないにせよ。)

ま、ただの旅先の情けなくてオモロい話って言えばそれだけなんですが。

とにかく、なんにせよこの体験は、私にとっての小さな「ブレークスルー」になったなあ、と思っています。

・・・・てなことや、他にもこの体験から派生して言える色々なことを、これまで異文化間コミュニケーションの授業の講義で取り入れたり(これがまた、種々の概念や理論について講義する時に、とても良い例になるんです)、友人に話したりする中で、さらにまた色々と感じることがこれまでにあって、そっちのことも書きたくてこの体験についてはあくまでその「材料」として書き始めたんですよね。でもエピソードそのものだけですごく長くなってしまったので(いや、なんちゅうの、書き始めたらもうとまらないっていうか、これでもかなり省いたんです^^;)、そういう後日談(てか、ブログ的にはそっちが本番・本論のはずなんですけど〜〜f^^;;))は、また日をあらためて、綴ってみたいと思います。

でも、この体験、こうして書いてみたことはこれまでなかったので、これはこれで、良かったかな。
posted by coach_izumi at 22:48| Food for Thoughtー感じたこと思ったこと