6月の帰国の際、縁あって、熊本のある私立大学の授業にゲストスピーカーとして呼ばれています。私は大学の研究者だったころの後半、「ヘルスコミュニケーション」と呼ばれる分野での「語り」というものの研究に携わっていたこともあり、「病の語り」というテーマで話をして欲しいという依頼です。
それで、私自身が話しやすいのでスライドを作っていて、そのうちの一枚がこれ。まだ作業途中なのですが、この自分で書いたスライドを見ていて・・・・
医療従事者と患者・クライアント間のコミュニケーションについて、前者にとっては「情報の授受」であっても後者にとっては「体験の語り・共有」であるから、そのギャップがうんぬん、ってことなんですが・・・(もちろん、必ずしもこのようにばっさりと2極化できないのですが、ま、「病の語り」のポイントを分かりやすく説明するために、こんな感じでわけてみたんですが・・・)
これって、医療従事者−患者/クライアントだけのことじゃないよね〜、と、あらためて感じてます。
卑近な例ですが、例えば我が息子との会話。
「明日までの宿題やったの?」と聞く時、私は彼が実際に宿題をしたかどうかという情報を手に入れたいのですが(そのいかんによって、その日のその後のスケジュールが変わってきたりするため)、それに息子が「・・・」とか「うるさい」とか「まだ」とか「やったよ!!」とかとにかくなんか回答するとき、息子は、必ずしも「私が求めている情報を私に提供しようとして」話をしているんじゃないんだよね・・・・って。
逆もまたありますが。私がただ「語りたい」ときに夫が(あ、これ、あくまで「例」ですよ!「例!」)それを「情報」としてしか受け取らない、とかね。(そして私が「いや、私は語りたいのよ、分かって欲しいのよ〜!」といらつくが夫はきょとん、とか。あ、例ね、例^^;;)
実は情報の交換、だけで終わる会話とかコミュニケーションってほとんどなくて、そこにはそれ以外あるいはそれ以上の何かが生じているんですよね。なんて、我ながら「知ってるよ」ってことではあるのですが、でも、はい、よく忘れてます。
さらには、それが「情報の授受」であれ「体験の共有」であれ、自分がその時欲しているものを相手が必ずしも望んでいるわけではない、っていうこと、よく、あるんだけど、やっぱり自分の都合ばっかりが見えちゃうんですよね(なぜあなたはそれを「情報」としてしかとれえないの〜〜っっ。とか。相手にしてみれば、え、だって・・・って感じですよね。あ、例です、例。)
ほんと卑近な例だけど、ごめんよ、息子&夫(あれ、「例」じゃないのか??苦笑)、と思う土曜の朝・・・です。
・・・で、あれ、どういうわけか、問題のスライドの画像がアップできないです(汗)。以下フェイスブックの方にアップするので、お手数ですが、そちらを見てください(汗、汗)。
https://www.facebook.com/pages/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%A2-%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0-%E8%88%B9%E5%B1%B1%E5%92%8C%E6%B3%89/567996563266088
2014年05月24日
「情報の授受」か「語り」か
posted by coach_izumi at 23:40| Wisdom from Communication Studiesー「コミュニケーション学」からの知恵
2014年04月30日
「文化の違い」ーほんと?
大学の研究者&教員時代の私の専門は「コミュニケーション学」。特に「異文化間コミュニケーション」の分野を専門として、のちに「ヘルス・コミュニケーション」と呼ばれる分野でも研究をするようになりました。
だからいわゆる「文化の違い」というものがどういうものか、とか、その背景は、などということついての、専門的な知識&知見は持っています。そして授業ではそういうことを話していました。
でも。
私が授業の時に、口を酸っぱくして学生に言っていたのは、「こういうことを知っているのはとても役に立つし、知らないといけない。でも、これらはそれぞれ、ひとつの考え方に過ぎない。それを鵜呑みにするな、それを過信するな、それに頼りすぎるな。常に自分で観察して感じて考えろ。」ということです。
文化やそれに基づく価値観・態度・行動をカテゴリー化したりパターン化したりする理論やモデルは、古典的なものを含めていろいろあって、もちろんなるほど、と思うものも数多くあります。そして実際、そういう知識を持っているのは、非常に役に立ちます。昨今の「グローバル化」が進む世の中においては、そういう知識がないことによる不利益は非常に大きいと思います。
でも、「異文化コミュニケーション」の専門家を名乗るのであれば、そういう理論やモデルの功罪の両方を知っている必要があります。そうじゃなければ、しろうとかモグリ(笑)です。
「異文化間コミュニケーション」において私たちを多いに助けてくれるはずの、カテゴリーやモデルに関しての知識。でもそれは、時に、私たちの観察力、思考、感性などなどを麻痺させます。そして何でも(特に困った時←これ、ポイント)「文化の違い」で片付けてしまってコト本質を見失う、という事態を招きます。
と、ちょっとマジメに書いてしまいましたが、分かりやすい例として、私のとほほな体験をお話します。
アメリカに留学したばかりのころ。大学院の授業でグループ発表がありました。
グループのメンバーでプレゼンテーションの内容について議論していたときに、グループの中でもとても親切で世話好きタイプのメンバーが、私の様子を見ていて、言ったのです。
「和泉、ここは。アメリカよ。日本と違うの。だから、思ったことはどんどん言っていいのよ。Don’be shy! (にっこり)」
ーいや、一応、日米のコミュニケーション・スタイルの違いについてのレポート出してこの大学院に受かってるから、違うって知ってるし・・・
ー私、思ったこと言えないで困ったことないし・・・(むしろ、余計なこと言うな、って言われることの方が多いし)
ー私を知っている人間で私のことshyだって思ってる人、一人もいないし・・
↑などなどの思いが一気に心の中を駆け巡り、でも私は、返す言葉がなかったのです。
だって。だって。
私、ただ単に、みんなの英語が早くて、何言ってるか分からないだけなんですけど・・・・・
その親切な彼女は、「なんだこの日本人、黙ったままで全然議論に参加しないじゃないか。やる気ないのか?」などという、ことは思わなかったのです。
むしろ「アメリカに来ても“日本人的”行動をしている和泉に、ここは違うのよ、って教えてあげなくっちゃ」という善意溢れるヒトだったんです。
でも・・・う〜ん、違うんですけど・・・
その後も議論はものすごいスピードで続き、相変わらずみなが何を言っているか分からない私は「いや実は・・・(私シャイなんじゃなくて、英語分かんないんです。)」と釈明するスキもありませんでした(笑)。
この経験はほとんど笑い話のようなエピソードですが、「文化の違い」ということに関する知識が、彼女の私に対する見方をあらかじめ決めてまってゆがめてしまっていた、ということの例だと思います。たとえそれが善意とは言え。
彼女は私を彼女の「文化の違い」に関する知識に基づいた「フレーム」の中に入れ、そのフレームの中でしか、現象を観察することができなかった、とも言えると思います。
もし、この「フレーム」がなければ、おそらく、私がただ単に英語についていけないから黙っている、って判断するのは、そんなに難しいことじゃなかったと思うんですよね・・・
あ、もちろん、私がそこで「ごめん、そうじゃなくて、英語が分かんないの」ってちゃんと言えば良いし、それをしなかったのは私の責任です。
でも、これも、別に、私が「日本人だから」英語が分からなかったわけでも、そのことが言えなかったわけじゃないですよね。
私の能力が足りなかったというだけ。
長々と、異文化間コミュニケーションの知識に関しての私見を述べましたが、同じようなことは、私たちの普段の生活にもあると思います。
「あのヒトはこういうヒト」
「あのときに○○だったから、きっと今度も○○だ」
「△△だから(例:女だから、男だから、XX県出身だから、●●大学だから、□□の仕事をしてるから、結婚してるから/してないから・・・・・エトセトラ)きっと、〜〜に違いない」
などなど。
決めつけて、いませんか?
そして今、ここ、にいるその人のことをちゃんと観察して、感じて、考えることを、怠ってませんか?
蛇足ですが・・・
異文化うんぬん以外のところで、小さい頃から私が若干うんざりしつつもなんだか滑稽に感じて「つきあって」きたのが、人々が私をはめる「一人っ子」のフレーム。
いや、もちろん、そこに真実もあるのよ。無論ある。
だけどさ〜。なんでみんな判で押したように、そう来るかな〜、って、むしろ小学生くらいの時に、思ってました。
でも、にこにこして、「一人っ子」に関する相手の期待を適度に裏切りつつも期待内に収まって、その場の会話が盛り上がりつつもまるく収まるようなことを言ってました。
そして私に判で押したようなことを言う大人はみんな、そういう私の気持ちに全く気がついてなかったと思います。
そんな芸当、大人になった今はむしろできないです(笑)。
コドモって、あなどれないですよね。
このことはまた後日。
だからいわゆる「文化の違い」というものがどういうものか、とか、その背景は、などということついての、専門的な知識&知見は持っています。そして授業ではそういうことを話していました。
でも。
私が授業の時に、口を酸っぱくして学生に言っていたのは、「こういうことを知っているのはとても役に立つし、知らないといけない。でも、これらはそれぞれ、ひとつの考え方に過ぎない。それを鵜呑みにするな、それを過信するな、それに頼りすぎるな。常に自分で観察して感じて考えろ。」ということです。
文化やそれに基づく価値観・態度・行動をカテゴリー化したりパターン化したりする理論やモデルは、古典的なものを含めていろいろあって、もちろんなるほど、と思うものも数多くあります。そして実際、そういう知識を持っているのは、非常に役に立ちます。昨今の「グローバル化」が進む世の中においては、そういう知識がないことによる不利益は非常に大きいと思います。
でも、「異文化コミュニケーション」の専門家を名乗るのであれば、そういう理論やモデルの功罪の両方を知っている必要があります。そうじゃなければ、しろうとかモグリ(笑)です。
「異文化間コミュニケーション」において私たちを多いに助けてくれるはずの、カテゴリーやモデルに関しての知識。でもそれは、時に、私たちの観察力、思考、感性などなどを麻痺させます。そして何でも(特に困った時←これ、ポイント)「文化の違い」で片付けてしまってコト本質を見失う、という事態を招きます。
と、ちょっとマジメに書いてしまいましたが、分かりやすい例として、私のとほほな体験をお話します。
アメリカに留学したばかりのころ。大学院の授業でグループ発表がありました。
グループのメンバーでプレゼンテーションの内容について議論していたときに、グループの中でもとても親切で世話好きタイプのメンバーが、私の様子を見ていて、言ったのです。
「和泉、ここは。アメリカよ。日本と違うの。だから、思ったことはどんどん言っていいのよ。Don’be shy! (にっこり)」
ーいや、一応、日米のコミュニケーション・スタイルの違いについてのレポート出してこの大学院に受かってるから、違うって知ってるし・・・
ー私、思ったこと言えないで困ったことないし・・・(むしろ、余計なこと言うな、って言われることの方が多いし)
ー私を知っている人間で私のことshyだって思ってる人、一人もいないし・・
↑などなどの思いが一気に心の中を駆け巡り、でも私は、返す言葉がなかったのです。
だって。だって。
私、ただ単に、みんなの英語が早くて、何言ってるか分からないだけなんですけど・・・・・
その親切な彼女は、「なんだこの日本人、黙ったままで全然議論に参加しないじゃないか。やる気ないのか?」などという、ことは思わなかったのです。
むしろ「アメリカに来ても“日本人的”行動をしている和泉に、ここは違うのよ、って教えてあげなくっちゃ」という善意溢れるヒトだったんです。
でも・・・う〜ん、違うんですけど・・・
その後も議論はものすごいスピードで続き、相変わらずみなが何を言っているか分からない私は「いや実は・・・(私シャイなんじゃなくて、英語分かんないんです。)」と釈明するスキもありませんでした(笑)。
この経験はほとんど笑い話のようなエピソードですが、「文化の違い」ということに関する知識が、彼女の私に対する見方をあらかじめ決めてまってゆがめてしまっていた、ということの例だと思います。たとえそれが善意とは言え。
彼女は私を彼女の「文化の違い」に関する知識に基づいた「フレーム」の中に入れ、そのフレームの中でしか、現象を観察することができなかった、とも言えると思います。
もし、この「フレーム」がなければ、おそらく、私がただ単に英語についていけないから黙っている、って判断するのは、そんなに難しいことじゃなかったと思うんですよね・・・
あ、もちろん、私がそこで「ごめん、そうじゃなくて、英語が分かんないの」ってちゃんと言えば良いし、それをしなかったのは私の責任です。
でも、これも、別に、私が「日本人だから」英語が分からなかったわけでも、そのことが言えなかったわけじゃないですよね。
私の能力が足りなかったというだけ。
長々と、異文化間コミュニケーションの知識に関しての私見を述べましたが、同じようなことは、私たちの普段の生活にもあると思います。
「あのヒトはこういうヒト」
「あのときに○○だったから、きっと今度も○○だ」
「△△だから(例:女だから、男だから、XX県出身だから、●●大学だから、□□の仕事をしてるから、結婚してるから/してないから・・・・・エトセトラ)きっと、〜〜に違いない」
などなど。
決めつけて、いませんか?
そして今、ここ、にいるその人のことをちゃんと観察して、感じて、考えることを、怠ってませんか?
蛇足ですが・・・
異文化うんぬん以外のところで、小さい頃から私が若干うんざりしつつもなんだか滑稽に感じて「つきあって」きたのが、人々が私をはめる「一人っ子」のフレーム。
いや、もちろん、そこに真実もあるのよ。無論ある。
だけどさ〜。なんでみんな判で押したように、そう来るかな〜、って、むしろ小学生くらいの時に、思ってました。
でも、にこにこして、「一人っ子」に関する相手の期待を適度に裏切りつつも期待内に収まって、その場の会話が盛り上がりつつもまるく収まるようなことを言ってました。
そして私に判で押したようなことを言う大人はみんな、そういう私の気持ちに全く気がついてなかったと思います。
そんな芸当、大人になった今はむしろできないです(笑)。
コドモって、あなどれないですよね。
このことはまた後日。
posted by coach_izumi at 23:57| Wisdom from Communication Studiesー「コミュニケーション学」からの知恵
2014年04月23日
「語り」と私
ある人とのやりとりをきっかけにして、「語り」というものについて、あらためて考えようと思いました。
私は大学の研究者であった時、研究の方法として「語り」の分析を多用していました。以下、私が3年ほど前に書いた論文からの抜粋です。
ーーその定義や焦点は分野によって様々であると言えるが、どの分野においても「語り」の分析は、客観的な現象としての唯一の「真実」の解明を目指すものではない、ということは共通しているだろう(Manelis Klein, 2001)。「語り」の分析では、出来事そのものよりもその出来事の「意味」を解明することが大切で、またその意味は出来事を「語る」者によって定義されることを前提とする。
そして10年ほど前に書いた論文の中で私は「語り」を以下のように定義しました。
−−個人が体験した(あるいはしている)特定の出来事を言語に置き換える行為であると同時に、特定の他者を対象としその他者との関係においてその体験が理解・共有されやすいように言語という表現方法を通してその体験の意味を(再)構築する行為及び(再)構築された内容。
ちょっと小難しい感じなんですが、今コーチをしていても、またレゴ・ブロックを使ったワークショップをしていても、自分は「語り」に対して同じ考えを持っていてそれに基づいて仕事をしているな、とあらためて感じます。
Everybody has a story.
研究者であった時も、そして今も、ずっとこの信念を持っています。
みな、「語る」べきストーリーがあって、それはそれぞれ、大切な意味を持っています。
逆に言うと、「語る」ことによってこそ、ストーリーは見いだされ創造されます。
そして、私たちはストーリーを生きることによってこそ、「生きて」いるのだと、私は思っています。
そして、そのそのストーリーの意味は語り手が決めると同時に、聞き手や語り手をとりまく社会や文化がともに構築するものでもあります。
その意味を見いだし、また(再)構築する、そこに関わる人でありたい。
仕事が変わっても、住む場所が変わっても、そのストーリーに耳を傾ける相手が変わっても、自分は、実は根底では同じ事を、ずっとし続けているのかもしれない。
そんなことを考える、春の雨が降る朝でありました。
私は大学の研究者であった時、研究の方法として「語り」の分析を多用していました。以下、私が3年ほど前に書いた論文からの抜粋です。
ーーその定義や焦点は分野によって様々であると言えるが、どの分野においても「語り」の分析は、客観的な現象としての唯一の「真実」の解明を目指すものではない、ということは共通しているだろう(Manelis Klein, 2001)。「語り」の分析では、出来事そのものよりもその出来事の「意味」を解明することが大切で、またその意味は出来事を「語る」者によって定義されることを前提とする。
そして10年ほど前に書いた論文の中で私は「語り」を以下のように定義しました。
−−個人が体験した(あるいはしている)特定の出来事を言語に置き換える行為であると同時に、特定の他者を対象としその他者との関係においてその体験が理解・共有されやすいように言語という表現方法を通してその体験の意味を(再)構築する行為及び(再)構築された内容。
ちょっと小難しい感じなんですが、今コーチをしていても、またレゴ・ブロックを使ったワークショップをしていても、自分は「語り」に対して同じ考えを持っていてそれに基づいて仕事をしているな、とあらためて感じます。
Everybody has a story.
研究者であった時も、そして今も、ずっとこの信念を持っています。
みな、「語る」べきストーリーがあって、それはそれぞれ、大切な意味を持っています。
逆に言うと、「語る」ことによってこそ、ストーリーは見いだされ創造されます。
そして、私たちはストーリーを生きることによってこそ、「生きて」いるのだと、私は思っています。
そして、そのそのストーリーの意味は語り手が決めると同時に、聞き手や語り手をとりまく社会や文化がともに構築するものでもあります。
その意味を見いだし、また(再)構築する、そこに関わる人でありたい。
仕事が変わっても、住む場所が変わっても、そのストーリーに耳を傾ける相手が変わっても、自分は、実は根底では同じ事を、ずっとし続けているのかもしれない。
そんなことを考える、春の雨が降る朝でありました。
posted by coach_izumi at 23:54| Wisdom from Communication Studiesー「コミュニケーション学」からの知恵