2014年02月11日

言語とコミュニケーション

大学の教員をしていた時、私の専門は「コミュニケーション学」でした。それで、「コミュニケーション学入門」なるものを、所属学科の1年生に教えていました。

そこで「言語とコミュニケーション」という内容を教えるときに、学生にまず「つかみ」としてさせていたことがいくつかあります。そのうちの一つが「はい、みなさん、ペンと紙を出して〜。みんなに見えるような大きさで、『ネコ』の絵を書いてくださ〜い」というもの。

別に『イヌ』でもいいんですけどね。とにかくに、学生は指示された通りに、『ネコ』の絵を描きます。

当然ですが、いろ〜んな『ネコ』が登場します。「おお、まさにこれは、『ネコ』!」というような、美術部ですか?みたいな作品もあれば、「これって・・・たぬき?」みたいなものもある。キュートなのもあれば、コワイものある。色々です。

それを見せ合い比べ合って(たいてい、笑いが起きたり、驚きがおきたり、と、和みます^^)、場が少し暖まったところで私が問うわけです。

「私はただ、『ネコ』を描いてください、って言っただけなのに、どうしてみんなこんなに違うの?」と。

そして全ての『ネコ』の絵はそれぞれ全く違うのだ、ということが、目に見えて分かることによって、同じ『ネコ』という言葉であっても、それぞれの人のアタマに浮かぶネコの像は全く違うのだ、ということに合点がいくわけです。

それは『ネコ』という生き物に対するいろんな思いや感情や経験の違いでもあるということについても、説明を付け足します(そういう説明が学生の方から出て来ることもあります)。

そこでさらに私は問いかけます。「『ネコ』という、一見単純で明快が概念ですら、皆が描く絵はこんなに違う。それでは、これが、『愛』とか『友情』とか『誠実』とか『一生懸命』とか、そういうもっと抽象的な概念になったらどうだろうね?」と。

よく使った例は、男子と女子が「つきあう」という概念。しじゅうメールし合う事を「つきあう」とする人がいる一方で、メールの頻度はあんまり重要じゃなくて、一週間に一度デートすることを「つきあう」とする人もいるよね?というように。その二人が「つきあう」とどうなると思う?と問うわけです。

あと、「友だち」という概念も、よく例として使いました。自分にとって「友達」であるということは△△ということだけど、相手にとっては違うことって・・ありますよね。

みな年頃だから、多かれ少なかれ、こういうことに対して思いがありますから、それぞれ、物思いにふけるかのごとくうなづいてりします(笑)。


私たちが関わっている様々な人間関係の中でも、何気なく言葉を言ったり聞いたりするときに、その言葉の捉え方が実は全然違う、とか微妙にずれている、ということがよくあります。そしてそれによって、摩擦が生じたり、いらいらしたり、しているのだけれど、なかなかそれに気がつけない。

「テストの勉強、がんばろうね!」と子供に声をかけて「うん、がんばる」と返してくれるものの、あれ、「がんばってる」??と疑問になるような行動しか、子供はしない・・・でも、ひょっとしたら、子供は子供で「がんばってる」のかもしれません。「がんばる」の定義や、その行為が違うのかもしれません。

「この案件、急いでやっといて」と上司が部下に言ったとして、部下としては彼もしくは彼女のスケジュールの中で「急ぎ」としてして扱っているのだけど、上司から見ると「急いでる」?と思ったり。

「XXについて、よろしくお願いします」「うん、まかせといて」という社交辞令的な会話ひとつにしても、次の日から何か具体的に自発的に行動してくれる場合もあれば、ただ単にアタマに置いておいて何か機会に巡りあった時にだけついでに何かしてくれる、っていう場合もありますよね。


「〜〜って言ったのに、どうして△△なの???」と、とまどったり、いらいらしたりすること、ありませんか?

そういうときは、あなたと相手が描く「〜〜」の絵が違うのかもしれません。