ファイザー2回目ミッション、コンプリートしました。
家族の中で先陣切って(?)ワクチン接種完了です。
NY州は先週から16歳以上が接種可能になったせいか、初回の時は待ち時間ゼロだったのに、今日はもっといっぱい人が来てて、外で20分くらい待って寒かったです。ただ、建物の中に入ってからは結構スルスルと進んで、接種後の待機時間15分を含めても会場に到着してから45分後には帰宅の途につくことができました。
接種会場はいろいろあるとは思いますが、私が接種をしたのは郡の大きなイベント会場(自宅から車で30分)で、どんどん人が来てどんどん打ってどんどん帰って行く、もうそれは”大量接種の流れ作業”。良くいえばとても効率がよくて悪く言うとちょっとなんか大雑把な感じ?でしょうか。日本みたいに住民台帳に基づいて照会して、みたいな手続きはないので、ネットで予約した際の予約券とIDを確認したら、とにかく打てや打てやと言うか、ほら、あっち行ってね、ほい、こっち来てね、はい、さあ打って、じゃあ、こっちで15分待ってね、そしたらあとはご勝手に、って感じ?です。やはり同じ会場で一回目を接種済みの夫が「徴兵される時の身体検査ってこんな感じだったのかなあ、と思った」と言ってたんですが、なるほどね、と思いました。
会場には外にも中にも軍人さんがいて、列に加わる最初の(予約券の)チェックは前回も今回も軍人さん。列の整理をしてるのは多分ボランティアの人で、他にもいっぱいある受け付けブースでIDをチェックしてる人もいて、接種スペースもいっぱいあって、とにかくがたくさんの人が働いていたけど、みなさんとっても効率的で感じよくて、わざわざ私に挨拶の声をかけてくれる人もいて(このご時世なのであえて私にそうしてくれてるのかかな?とも思った。)看護婦さんもとても明るくて優しかったです。接種後に満面の笑顔でコングラチュレーションズ!と言ってくれたのが、接種が完了したことそのものよりもよっぽど、ジンと来た。アメリカのポジティブさと言うか良心みたいなものを感じることができた気がしました。
それにしても、今や1日に300万人とか400万人のペースでワクチン接種が進んでいるアメリカ。あの殺伐さすら感じるでかいイベント会場で肌感覚で感じた、(細かいことはいいから?)とにかく打つぞ打つぞ的な、若干雑な感じすらしてしまう、力技と言うか、力づくというか、機動力というか、組織力というか?なんかよくわかんないけど、なんと言うか、すごいんですけど。そしてその気になりゃこういうことができるなら、そもそもどーしてこんなにたくさん感染して死んじゃったの?もっと最初から本気でやったら、もっとなんとかなったんじゃないの?と、思ったりするんですが、「それはまた別なんじゃない」(by 夫)ということで・・・
振り幅デカすぎだよ、アメリカ。
2021年04月14日
ワクチン接種完了しました
posted by coach_izumi at 02:12| アメリカの生活
2021年02月13日
父の親友
一億総中流という言葉が流行った頃(それは昭和の昔)、当時小学生だった私は母に「うちも中流なの?」と尋ねた。母はちょっと苦笑いして「うちは下流かな」と答えたので私はびっくりしたw そう言えば祖母は読み書きがちゃんとできなかったし、私はずっと自転車買ってもらえなかったし(そんでねだってねだったみんなが乗ってたタイプよりも安いタイプのをようやく買ってもらったけど一人だけ仕様がみんなと違ってダサいっていじめられたし)、私は船山家では初めての(そして最後の〜なぜなら私が船山の最後の人間だから)大学進学者であったし、確かに我が家は庶民であった。が、私の父親は、なぜか、お金持ちと仲良くなる、それもすごく仲良くなる、と言う特技(?)があった。北海道でも茨城でもそうであった。と言っても、ヘッジファンドでぶいぶい言わせたぜとか(そんなものは当時ないが)、ITベンチャーで成功したとか(そういうのも当時はないか)、はたまた大会社とか大きな組織の偉い人、とかじゃなくて、代々土地持ちのお金持ちで本人は至ってのんびりいい人で、暮らしぶりも全然派手じゃなくて、はっきり言って全然お金持ちに見えません、みたいなタイプ。
北海道で私たちが住んでいた隣町に「N御殿」と地元の人が呼ぶ御殿、じゃなかった、豪邸に住んでいた、なんだかやたらお金持ちのNさんはまさにそういう人で、そして父の生涯の友であった。(別に父が土地を分けてもらったとか株の配当をもらったとかそういうことはなかったですが、自分の山で取れるフキとか山菜をいつもそれこそ山のようにくれましたw)そのNさんと父が生涯の友となるべく出会った頃のエピソードを以前父が話してくれたことがあって、今でも時々思い出す。
当時Nさんと父は北海道の林業・材木関係の会社に勤めていて、一緒に日高山脈の山奥に車で出かけることがあった。車の中で缶入りの飲料か何かを飲み終わった父は、その入れ物を、走っている車の窓からひょいと捨てようとしたらしい(←けしからんね^^;;)。するとNさんが、「おいやめろ。捨てるな。俺があとで始末しておくから」と父を諫めて止めたと言うのである。父はその時「こいつ、すごいな、と思った」、と私に話してくれた。その後、Nさんと父の交流は生涯続き、父はNさんを「俺の親友」と称していた。ちなみに父は「俺はあれから絶対に物を山に捨てなくなった」と私に話してくれた。
父は当時20代だったはずだが、高校の時に同級生をいじめた上級生にリベンジするために同級生を集めて父が先頭に立ってやっつけに行った(そして勝ったと自慢していた〜真偽は分からないが)、みたいな若者であった。そして高校卒業後の進路で祖父(=父の父)と衝突し、家出をして1年間行方不明になり、ようやく帰ってきたら重機の運転してフリーで仕事してました、みたいなそういうタイプ。ついでに言うと当時は会社員でこそあったが「職業、山男」みたいな仕事をしていた。そういうヤンチャな父が(林業関係者以外は)誰も来ない山にゴミを捨てるという、ヒジョーに不道徳的な行為であっても多分多くの人がやっちゃってたであろうという行為をするのを、それも昭和の昔の当時に、はっきりと言葉で諫めて止める、というのは、誰にでもできることではないと思う。私も何度も直接会ったことがあるNさんは、のほほーんとのんびりしてるいいおじさん、って感じで、死ぬまでヤンチャだった(←娘は困ったよ^^;)父のような人間にそういうことをはっきりと言って諫める図は想像できないが、私はNさんは素敵な人だなーとそのエピソードを聞いて思った。そしてそういうNさんに対して「こいつ、すごいな」と思ったという父についてもまた「お父さん、いいじゃん」と思ったのであった。
父が余命宣告されて、でも頑として一切の治療も世話も拒んで一人で北海道の自宅で暮らしていた時(いや、だから一人娘は困ったよ^^;)、Nさんに電話してこれこれこういう事情なんで、父が生きてるうちに父に電話しておしゃべりしてやってくれないか、そして私が電話したもことも病気のことも黙っててくれないか、とお願いした。Nさんはすぐにそれも何度か父に電話してくれた。不良病人だった父と私はよく喧嘩していたが、それでも父は私に「Nから電話来てさ〜色々しゃべってさ〜いや〜面白かった〜」と嬉しそうに言ったものである。ひひひ、それは実は私が仕込んだんだよ、とは、武士の情け、父には言わなかったし、最後に生きている父に会った時も実は喧嘩別れしてしまったのだが、あの仕込みは最後の親孝行だったな、と思ってる。
父が自宅で亡くなっているという知らせを受けてその日に熊本空港から千歳空港に飛んだが(直航便はなかったけど)、熊本空港で私が親戚以外に電話した二人のうちの一人がNさんで、Nさんは奥さまと一緒にお通夜から来てくれた。
通夜振舞いの席でNさんと奥様にお礼を言ってお話をしていたら、奥様が突然、唐突に、私にこんな話をしてくれた。
XX日の夜中に二人ともなーんだか寝られなくて、そんなこと普段はないんだけど、二人とも茶の間に出てきたのさ(←北海道弁w)。そしたら、この人(=Nさん)、なーんにもないところで突然転んで、おでこ怪我したのさ。ほら(傷を指す)、ねー、何やってんだべね(←北海道弁w)。
Nさんの額には確かに新しい傷があって、Nさんは、テヘヘ、って感じで苦笑いしていた。
父は自宅で一人で亡くなっていたところを発見されたが、実はその前の日に近所に住む親戚が父の様子を見に会いに行ってくれていた。普段は一週間に一度父の様子を見に行ってくれていたその親戚は、父と兄弟のように育った父の従兄弟であった。生きている父と最後に会ったその翌日の昼頃に、「なんだか気になって」父の様子をまた見に行ってくれたのだった。そこで居間に倒れていた父の遺体を発見して私に連絡をくれたという顛末だった。XX日の夜中はその親戚が最後に生きている父にあった日の夜中で、死後硬直などの状態から、おそらく父が亡くなったのであろうと推察される時間帯だったが(自宅で一人でなくなったので正確な時間は分からない)、そのことはNさんご夫妻には伝えてなかった。
父の遺体には、その従兄弟が最後に父に会った時にはなかった生傷があって、きっと亡くなる前に転んだだろう、とその従兄弟は言っていた。そのことも、Nさん夫妻には全く言っていなかったが、Nさんのその新しい傷は、父の傷と同じ場所にあった。
「Nって俺の親友がいるんだけど、そいつが俺、大好きでさー」と、酔っ払って何かの雑談の時に親戚の誰かにに嬉しそうに父が話していたことがあった。私は二人の傷のことに、ちょっと驚いたが、お父さん本当にNさんが大好きだったんだなー、と、もうただ、そう思うだけだった。
北海道で私たちが住んでいた隣町に「N御殿」と地元の人が呼ぶ御殿、じゃなかった、豪邸に住んでいた、なんだかやたらお金持ちのNさんはまさにそういう人で、そして父の生涯の友であった。(別に父が土地を分けてもらったとか株の配当をもらったとかそういうことはなかったですが、自分の山で取れるフキとか山菜をいつもそれこそ山のようにくれましたw)そのNさんと父が生涯の友となるべく出会った頃のエピソードを以前父が話してくれたことがあって、今でも時々思い出す。
当時Nさんと父は北海道の林業・材木関係の会社に勤めていて、一緒に日高山脈の山奥に車で出かけることがあった。車の中で缶入りの飲料か何かを飲み終わった父は、その入れ物を、走っている車の窓からひょいと捨てようとしたらしい(←けしからんね^^;;)。するとNさんが、「おいやめろ。捨てるな。俺があとで始末しておくから」と父を諫めて止めたと言うのである。父はその時「こいつ、すごいな、と思った」、と私に話してくれた。その後、Nさんと父の交流は生涯続き、父はNさんを「俺の親友」と称していた。ちなみに父は「俺はあれから絶対に物を山に捨てなくなった」と私に話してくれた。
父は当時20代だったはずだが、高校の時に同級生をいじめた上級生にリベンジするために同級生を集めて父が先頭に立ってやっつけに行った(そして勝ったと自慢していた〜真偽は分からないが)、みたいな若者であった。そして高校卒業後の進路で祖父(=父の父)と衝突し、家出をして1年間行方不明になり、ようやく帰ってきたら重機の運転してフリーで仕事してました、みたいなそういうタイプ。ついでに言うと当時は会社員でこそあったが「職業、山男」みたいな仕事をしていた。そういうヤンチャな父が(林業関係者以外は)誰も来ない山にゴミを捨てるという、ヒジョーに不道徳的な行為であっても多分多くの人がやっちゃってたであろうという行為をするのを、それも昭和の昔の当時に、はっきりと言葉で諫めて止める、というのは、誰にでもできることではないと思う。私も何度も直接会ったことがあるNさんは、のほほーんとのんびりしてるいいおじさん、って感じで、死ぬまでヤンチャだった(←娘は困ったよ^^;)父のような人間にそういうことをはっきりと言って諫める図は想像できないが、私はNさんは素敵な人だなーとそのエピソードを聞いて思った。そしてそういうNさんに対して「こいつ、すごいな」と思ったという父についてもまた「お父さん、いいじゃん」と思ったのであった。
父が余命宣告されて、でも頑として一切の治療も世話も拒んで一人で北海道の自宅で暮らしていた時(いや、だから一人娘は困ったよ^^;)、Nさんに電話してこれこれこういう事情なんで、父が生きてるうちに父に電話しておしゃべりしてやってくれないか、そして私が電話したもことも病気のことも黙っててくれないか、とお願いした。Nさんはすぐにそれも何度か父に電話してくれた。不良病人だった父と私はよく喧嘩していたが、それでも父は私に「Nから電話来てさ〜色々しゃべってさ〜いや〜面白かった〜」と嬉しそうに言ったものである。ひひひ、それは実は私が仕込んだんだよ、とは、武士の情け、父には言わなかったし、最後に生きている父に会った時も実は喧嘩別れしてしまったのだが、あの仕込みは最後の親孝行だったな、と思ってる。
父が自宅で亡くなっているという知らせを受けてその日に熊本空港から千歳空港に飛んだが(直航便はなかったけど)、熊本空港で私が親戚以外に電話した二人のうちの一人がNさんで、Nさんは奥さまと一緒にお通夜から来てくれた。
通夜振舞いの席でNさんと奥様にお礼を言ってお話をしていたら、奥様が突然、唐突に、私にこんな話をしてくれた。
XX日の夜中に二人ともなーんだか寝られなくて、そんなこと普段はないんだけど、二人とも茶の間に出てきたのさ(←北海道弁w)。そしたら、この人(=Nさん)、なーんにもないところで突然転んで、おでこ怪我したのさ。ほら(傷を指す)、ねー、何やってんだべね(←北海道弁w)。
Nさんの額には確かに新しい傷があって、Nさんは、テヘヘ、って感じで苦笑いしていた。
父は自宅で一人で亡くなっていたところを発見されたが、実はその前の日に近所に住む親戚が父の様子を見に会いに行ってくれていた。普段は一週間に一度父の様子を見に行ってくれていたその親戚は、父と兄弟のように育った父の従兄弟であった。生きている父と最後に会ったその翌日の昼頃に、「なんだか気になって」父の様子をまた見に行ってくれたのだった。そこで居間に倒れていた父の遺体を発見して私に連絡をくれたという顛末だった。XX日の夜中はその親戚が最後に生きている父にあった日の夜中で、死後硬直などの状態から、おそらく父が亡くなったのであろうと推察される時間帯だったが(自宅で一人でなくなったので正確な時間は分からない)、そのことはNさんご夫妻には伝えてなかった。
父の遺体には、その従兄弟が最後に父に会った時にはなかった生傷があって、きっと亡くなる前に転んだだろう、とその従兄弟は言っていた。そのことも、Nさん夫妻には全く言っていなかったが、Nさんのその新しい傷は、父の傷と同じ場所にあった。
「Nって俺の親友がいるんだけど、そいつが俺、大好きでさー」と、酔っ払って何かの雑談の時に親戚の誰かにに嬉しそうに父が話していたことがあった。私は二人の傷のことに、ちょっと驚いたが、お父さん本当にNさんが大好きだったんだなー、と、もうただ、そう思うだけだった。
posted by coach_izumi at 05:23| Food for Thoughtー感じたこと思ったこと
2020年12月23日
突発性難聴体験記 その1 誤診されちゃいました@Urgent Care
突発性難聴体験記 その1
誤診されちゃいました@Urgent Care
*夏の終わりに突発性難聴になり、左耳が一時ほとんど聞こえなくなりました。無事に治療を終え、今もおそらく厳密には右耳と左耳で聞こえかたが違うのですが(詳細で専門的な検査をすれば差が分かる程度で)普段の生活では違いも不自由も感じない程度まで回復しました。その体験について、突発性難聴という病気そのものだけについてではなくて(この病気は回復の経緯も程度も個人差があるということですし私は専門家ではないので、病気そのものについての見解は述べられませんし)、その時に私自身が個人的に経験した感覚や感情について振り返ってまとめておこうと思います。
ある朝起きたら突然左耳の中でキーンという音がし始めて、突然、左耳がほぼ聞こえなくなりました。ググると色々な可能性がありそうでしたが(特に命に関わるとは思えなませんでしたが)、一応万が一を考えて早く耳鼻科のお医者さんに診てもらった方がいいだろう。と思ったものの、そう、アメリカは、通常はすぐにお医者さんに診てもらえないんです。予約が必要だし、予約取れても何ヶ月も先とか、超フツー。ただ、Urgent Care(ER=Emergency Careではありません)というのがあって、 そこだとwalk-inつまり予約なしで行っても診てもらえるので、朝の予定をキャンセルして朝食後に(ちゃんと食べないと、待たされるかもしれないからねーと思い。笑)いざUrgent Careへ行こう。と思ったんですが、その前に。
「うーん、耳鳴りって、英語で何ていうの?これまで一度も見たことも使ったことも勉強したこともないよ」と思って調べるnon-native speaker その1とは私でありました。
で、調べたら、My ears are ringing. だそうで。ring=鳴る、なんで、「そのまんまやんけー!」と拍子抜け。日本語の表現をそのまま英訳しても伝わらないことは多々あるので(例えば鼻水が出ることはnoseがrunすると言う&nose waterとか言わないけど、これ、知らないと言えない&言っちゃいそうですよね)、さあ、どんな言い方するんだい?とワクワク戦々恐々としていたこの気持ちの行き場がないじゃないの。ちなみにsingも使うらしく、have a singingとかare singingとか言うらしいです。
マスクして病院に入るとすぐにおでこでピッと体温計測。そのあとに「過去二週間ニューヨーク州以外のところに行ってない?」と聞かれたりして、めでたくチェックイン。かと思いきや、ケータイ番号聞かれて、車の中で待っててね、あ、すぐ外にベンチがあるからそこに座っててもいいよとのこと。コロナ対策ですね。
言われた通りベンチに座って待ってたら割とすぐに看護士さんからスマホに電話があってなんとケータイで最初の問診。に応じようとしていつのもくせで左耳にスマホに当てたら、聞こえないじゃん(だから病院来てるんだって)。そんで右耳に当てて話してると、いやー違和感ありありだわー。だからいつもより(英語だし)聞きにくい&話しにくいのでした。でもちゃんとグーグルで調べた言い方を応用してMy left ear started ringing this morning....と言った自分を私は褒めたいと思います。そう、参考例文はears areと複数形だったけど、この場合は単数形にしないとね!
耳の中のことだし、見ただけでは特に原因が分からない場合もあると言うことで(ストレスが原因とか)、このあと専門医に回される気満々でいたんですが、最初に右耳、そして左耳を見てくれたお医者さんがすぐに「you have an infection(感染症がある)」とおっしゃるのです。最近風邪を引いたか聞かれたのでいいえ、と言ったら、おそらく季節性のアレルギー(まー花粉症ですね)と関係があるんじゃないかと言うことでした。
で、はいはいはい、いつものプロトコルですねー、て感じで抗生剤を処方してもらって、その他にプロバイオティックスも一緒に飲んでねー、ということで。それから花粉症対策の抗アレルギー剤と鼻スプレーをドラッグストアで買ってこの先2週間飲んで(スプレーして)ねー。あ、一週間くらいしたら主治医に見てもらってねー。じゃそういうことで、はい、サヨナラ、だったんです。
え、あのぉ、自律神経 がどうとかストレスがどうとかそういう、ちょっと、なんて言うの、デリケートっていうか複雑な感じの診断を予想(期待?)してたんですけど。違ったのね・・・と思いながらずーっと左耳がキーンと鳴っていて頭の中がずっと蝉の合唱状態?な初体験をしつつ、まあ、簡単な(?)ことだったようだからよかったよかったと一度は思いました。そして別にどこが痛いわけでもないけど快か不快かと言えばやはり「不快」なわけで、でもその不快さそのものよりも、こういう世界があるんだなあ、やっぱり自分で体験してみないと分からないもんだなあ、と昨年の夏に発症したアトピーが春先にひどくなったことも併せて、つくづくと、そんな風に感じていたのです。
心身の不調って、「見るからに大変そう」だったり「わかりやすいもの」だったりしないと、なかなか他の人には分かってもらえないもので、私は大体においていつもその「他の人」の側として生きて来たので、今まであの人のああいうのとか別のあの人のああいうのと全く分かってあげてなくてその辛さの想像もできなかったこと、申し訳ないことだったなー、なんてことを、永遠に終わりそうもない蝉の合唱聴きながら感じていました。
それにしても、これまでなかったことが発症してるのって、やっぱり、お年頃ってことよね。もう明日できることは今日やらないようにして無理せず早く寝よう、と、これもつくづく思ったりしながら。
ところがなんとなんと、これは誤診だったことが数日後に判明したのでした。つづく。
誤診されちゃいました@Urgent Care
*夏の終わりに突発性難聴になり、左耳が一時ほとんど聞こえなくなりました。無事に治療を終え、今もおそらく厳密には右耳と左耳で聞こえかたが違うのですが(詳細で専門的な検査をすれば差が分かる程度で)普段の生活では違いも不自由も感じない程度まで回復しました。その体験について、突発性難聴という病気そのものだけについてではなくて(この病気は回復の経緯も程度も個人差があるということですし私は専門家ではないので、病気そのものについての見解は述べられませんし)、その時に私自身が個人的に経験した感覚や感情について振り返ってまとめておこうと思います。
ある朝起きたら突然左耳の中でキーンという音がし始めて、突然、左耳がほぼ聞こえなくなりました。ググると色々な可能性がありそうでしたが(特に命に関わるとは思えなませんでしたが)、一応万が一を考えて早く耳鼻科のお医者さんに診てもらった方がいいだろう。と思ったものの、そう、アメリカは、通常はすぐにお医者さんに診てもらえないんです。予約が必要だし、予約取れても何ヶ月も先とか、超フツー。ただ、Urgent Care(ER=Emergency Careではありません)というのがあって、 そこだとwalk-inつまり予約なしで行っても診てもらえるので、朝の予定をキャンセルして朝食後に(ちゃんと食べないと、待たされるかもしれないからねーと思い。笑)いざUrgent Careへ行こう。と思ったんですが、その前に。
「うーん、耳鳴りって、英語で何ていうの?これまで一度も見たことも使ったことも勉強したこともないよ」と思って調べるnon-native speaker その1とは私でありました。
で、調べたら、My ears are ringing. だそうで。ring=鳴る、なんで、「そのまんまやんけー!」と拍子抜け。日本語の表現をそのまま英訳しても伝わらないことは多々あるので(例えば鼻水が出ることはnoseがrunすると言う&nose waterとか言わないけど、これ、知らないと言えない&言っちゃいそうですよね)、さあ、どんな言い方するんだい?とワクワク戦々恐々としていたこの気持ちの行き場がないじゃないの。ちなみにsingも使うらしく、have a singingとかare singingとか言うらしいです。
マスクして病院に入るとすぐにおでこでピッと体温計測。そのあとに「過去二週間ニューヨーク州以外のところに行ってない?」と聞かれたりして、めでたくチェックイン。かと思いきや、ケータイ番号聞かれて、車の中で待っててね、あ、すぐ外にベンチがあるからそこに座っててもいいよとのこと。コロナ対策ですね。
言われた通りベンチに座って待ってたら割とすぐに看護士さんからスマホに電話があってなんとケータイで最初の問診。に応じようとしていつのもくせで左耳にスマホに当てたら、聞こえないじゃん(だから病院来てるんだって)。そんで右耳に当てて話してると、いやー違和感ありありだわー。だからいつもより(英語だし)聞きにくい&話しにくいのでした。でもちゃんとグーグルで調べた言い方を応用してMy left ear started ringing this morning....と言った自分を私は褒めたいと思います。そう、参考例文はears areと複数形だったけど、この場合は単数形にしないとね!
耳の中のことだし、見ただけでは特に原因が分からない場合もあると言うことで(ストレスが原因とか)、このあと専門医に回される気満々でいたんですが、最初に右耳、そして左耳を見てくれたお医者さんがすぐに「you have an infection(感染症がある)」とおっしゃるのです。最近風邪を引いたか聞かれたのでいいえ、と言ったら、おそらく季節性のアレルギー(まー花粉症ですね)と関係があるんじゃないかと言うことでした。
で、はいはいはい、いつものプロトコルですねー、て感じで抗生剤を処方してもらって、その他にプロバイオティックスも一緒に飲んでねー、ということで。それから花粉症対策の抗アレルギー剤と鼻スプレーをドラッグストアで買ってこの先2週間飲んで(スプレーして)ねー。あ、一週間くらいしたら主治医に見てもらってねー。じゃそういうことで、はい、サヨナラ、だったんです。
え、あのぉ、自律神経 がどうとかストレスがどうとかそういう、ちょっと、なんて言うの、デリケートっていうか複雑な感じの診断を予想(期待?)してたんですけど。違ったのね・・・と思いながらずーっと左耳がキーンと鳴っていて頭の中がずっと蝉の合唱状態?な初体験をしつつ、まあ、簡単な(?)ことだったようだからよかったよかったと一度は思いました。そして別にどこが痛いわけでもないけど快か不快かと言えばやはり「不快」なわけで、でもその不快さそのものよりも、こういう世界があるんだなあ、やっぱり自分で体験してみないと分からないもんだなあ、と昨年の夏に発症したアトピーが春先にひどくなったことも併せて、つくづくと、そんな風に感じていたのです。
心身の不調って、「見るからに大変そう」だったり「わかりやすいもの」だったりしないと、なかなか他の人には分かってもらえないもので、私は大体においていつもその「他の人」の側として生きて来たので、今まであの人のああいうのとか別のあの人のああいうのと全く分かってあげてなくてその辛さの想像もできなかったこと、申し訳ないことだったなー、なんてことを、永遠に終わりそうもない蝉の合唱聴きながら感じていました。
それにしても、これまでなかったことが発症してるのって、やっぱり、お年頃ってことよね。もう明日できることは今日やらないようにして無理せず早く寝よう、と、これもつくづく思ったりしながら。
ところがなんとなんと、これは誤診だったことが数日後に判明したのでした。つづく。
posted by coach_izumi at 08:28| アメリカの生活